3章におきましては、1章2章においてすでに語られた、イエス・キリストの奥義をいただいていることに対するパウロの驚きと使命が証しされています。8節「聖徒のうちで最も小さな私にこの恵みが与えられている」、パウロはこのように福音の奥義を示されていることに深い感動を覚えておりました。
私たちは、日々の生活における不満や自分の内にある空虚感の原因を外に見出そうといたします。「〜が無いから」、「〜が足らないから」、「〜さえ手に入れば」、このようにして青い鳥を追いかけるような毎日を過ごしてしまいがちです。けれども、本当の問題は外にではなく私たちの内にあることを教えられるのです。パウロは「福音の奥義・恵みがこんな私に与えられている!」と驚きました。その価値をはっきりと認めていたのです。そのことに満ち足りておりました。私たちはどうでしょうか。イエス・キリストの福音というかけがえのない宝を、その価値に相応しく受け止めているでしょうか。本当は私たちの人生が満たされる宝を得ているのに、その価値が分からずにもっと良いもの、自分にとって必要なものが他にあるような錯覚をしてはいないでしょうか。
私は大学時代弦楽器を専門としておりました。市民オーケストラなどのお手伝いに行きますと、お金持ちの愛好家の方が専門家のような高価な楽器を持っているのです。けれども、なかなか思うような音が出ず、「もっとこういう音色の出る楽器が欲しいわ。この楽器はここが悪いのよ」というような話しをしているのを耳にしました。もっと良い楽器が手に入れば良い音が出るという勘違いをして、自分の腕前に問題があることを忘れてしまうのです。そして、すでに所有している楽器がどんなに素晴らしい物であるかに気づくことができないのです。
罪深い私たち人間に身分不相応な宝が与えられています。イエス・キリストの福音です。これほど高価なものを、選ばれて与えられているのです。そうしましたときに私たちが考えるべきことは、「せっかく与えられているこの宝を生かして、私はどのように生きるべきか」ということでありましょう。
「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません」(8・9節)