パウロは、ここで神を知っていながら、無価値な幼稚な教え(新共同訳では、無力で頼りにならない支配する諸霊)に逆戻りしていくガラテヤの人たちを激しく糾弾しています。
わたしたちは、この地上にいる間は罪の性質を持ちつつ生きていかなくてはなりません。もともと神中心ではなく、自己中心で生きていきたいという潜在的な思いを持つわたしたちにとっては、かえって自分のコントロール内の無力で頼りない存在(神)のほうが都合がよいとさえ言えます。そうすれば、都合が悪く必要ではなくなったときに、その存在に責任転嫁したり、また切り捨てることができるからです。
聖書の語る罪とは「ハマルティア」という言葉が使われ、これは「的外れ」を意味します。神中心ではないものはすべて的(神)の外にあると言えます。それがいかに一見益となり、良さそうに見えても、神基準においては罪と認められるのです。
パウロはこのような者たちに対して、なんと「わたしのようになってください」と願うのです。ここでパウロは、肉体の弱ささえあらわにしながら、神を中心に、信仰によって生きていく姿勢を強く願うのです。
パウロは、ガリラヤの人たちのうちにキリストがかたち造られるようにと、産みの苦しみをもって祈りとりなしています。同様に、イエスもまたペテロのために祈りました(ルカ22章32節前段)。また御霊もわたしたちのためにうめきをもってとりなし続けていてくださるのです(ローマ8章26節)。そして、このような恵みを知る者に対してイエス・キリストは「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてあげなさい」(ルカ22章32節後段)とチャレンジを与えてくださるのです。