パウロは、ガラテヤの信者たちが救われたことは、行いによるのではなく、ただ信仰による圧倒的な神の恵みであることをここで力強く宣言しています(参照:ローマ3章24節)。ユダヤ教徒にとっても、もちろんキリスト教徒にとっても偉大な存在であるアブラハムをここで登場させ、彼が信仰によって神様から義と認められたことを語ります。これは、救いの完成には、行い(割礼)が必要であることをアブラハムの経験から導き出す彼らの考え方に、対抗するためでした。
パウロと同様にわたしたちもイエス・キリストを伝えていくときに、まず相手の土俵に乗り、相手に伝わる方法や言葉を通し向かいあっていかなければ決して伝わらず、また通じません。しかも、それは借り物の言葉ではなく、自分が経験し考えられたなかから発せられる言葉を通してでなければ、決して相手のこころには真に伝わらないのではないかと思うのです。
神であるイエス・キリストが人となってこの世界に来られ、この地に住み生き、そして十字架につけられ、苦しみのうちに完全に死に、それだけではなく、よみがえられて弟子たちに現れてくださった後に、天に昇られ、そこでわたしたちの住むところを備えていてくださり、やがてこの世界に戻ってわたしたちを迎えにこられるのです。
わたしたちは、様々な方法を通して父なる神、子なるイエス・キリスト、助け主なる聖霊を知ることができます。他の人の証や大自然のすばらしさなど方法は様々です。しかしより正確に、また豊かに知るために、わたしたちには聖書が与えられています。わたしたちが理解できることばとなってご自身をあらわしてくださった方を、わたしたちは読み、聴き、心に留め、思い巡らすことを通し知り続けることを、共に求めていきましょう。