パウロは、自分自身の回心の出来事から流れるような筆運びで、福音の真理に迫っていきます。使徒のなかでも一番良く知られていたであろうケパ(ペテロ)が、ユダヤ人の前では異邦人と一緒に食事を取らなかったという出来事がありました。これをパウロは、「福音の真理についてまっすぐに歩んでいない」と非難しました。この指摘を通して、パウロはガラテヤ人の信仰のあり方を問うているのです。
16節の「人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる・・・」パウロは、この一つのことを懇ろにガラテヤの教会に語ります。彼らが抱えている問題の本質は、そこにあったからです。信仰によって救われたのに、「やっぱり律法は大切なんじゃないか」、「やっぱり律法を守って、割礼を受けないと、救われていることにはならないんじゃないか」、そう彼らは思っていたのです。
私たちも教会生活を行うなかで、そういった勘違いをしてしまうことがあります。
「自分が信仰に立ったときにこちらを選ぶけれど、和を乱したくないので○○役員と同じ意見にする」
「就職してからというもの礼拝に出るだけで、精一杯。奉仕ができていないので教会員としての義務を果たせていない。クリスチャン失格だ」
信仰よりも他人の目を気にしたり、信仰よりも奉仕を重視したりしてしまいます。そういう弱さが私たちにあるのではないでしょうか。それは、まだ「私」が生きているからです。20節によれば、そういった律法主義の自分はキリストとともに十字架につけられたとパウロは説明しています。パウロは、そうして信仰に生きることを勧めているのです。21節にあるように、神の恵みを無駄にしない信仰生活でありたいものです。