迫害者パウロが伝道者として人々に認められるようになるためには、ある程度のアピールが必要だったのでしょう。彼は、手紙の書き出しから自らの使徒性をアピールしています。その確かさは、人によるのではなく、神によるのだとパウロは強調しています。昨今は、カルト宗教が横行し、キリスト教プロテスタント系だから安心だとも言えなくなりました。人々の目は、否が応でも指導者に向けられます。
ガラテヤの諸教会もまたパウロによって福音を聞き、救いにあずかることができました。しかし、パウロが離れてからは、7節の「かき乱す者たち」によって、福音のいのちを失いかけていました。さらには、かき乱す者たちは、パウロの使徒性まで疑うように、ガラテヤの教会に働きかけたのでしょう。パウロ自身が、自分の使徒性について弁明しなければならなくなりました。その目的は、パウロ自身のプライドのためではありません(10節)。ガラテヤのクリスチャンたちに、本当の福音に立ち返ってほしいからです。パウロは、情けなかったでしょう。6節の「驚いています」とは、新共同訳では、「あきれて果てています」と訳されています。しかし、彼はガラテヤの教会を見捨てません。それは、彼自身が恵みの中で生かされているからでした。15節「生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方」と語られています。彼が熱心にガリラヤのクリスチャンを呼び覚まそうとしているのは、彼自身からくるものではなく、神から発せられた恵みでした。
イエス様を信じて救われると、周りから期待されることがあります。さまざまな奉仕を委ねられ、任されます。期待されると嬉しくなりますが、同時に重荷に感じたり、がんばらなければいけないと自らを鼓舞したりしようとします。しかし、大切なのは、恵みです。恵みによって救われているのですから。「恵みをもって召してくださった方」は、私たちが多くの奉仕をすることよりも、恵みに留まるようにと期待しておられるのです。