パウロは、苦しんでいました。歯がゆい思いをしていました。心配していました(3節)。自分のことではありません。コリントの教会を愛するがゆえに、愛する兄弟姉妹が、「別のイエス、異なった霊、異なった福音」の餌食になっていないか心配だったのです。コリントの教会には、にせ使徒が徘徊していました(13節)。彼らが、しようとしたことは何でしょうか。それは、パウロの使徒としての権威に疑いを持たせることでした。サタン(14・15節)がクリスチャンを陥れる得意技があります。それは、霊的な指導者に疑いをかけるようにすることです。
毎年CS教師研修会で名古屋に行っています。昨年は、妻と娘も一緒に行きました。集会の途中、まだ2歳に満たない娘を散歩に連れて行った妻に、2人組のエホバの証人が声をかけてきました。妻は当然やんわりと断ります。
「夫が牧師をしています。申し訳ありませんが、お話をうかがうことはできません」
2人のうち片方が優しく質問したそうです。
「そうですか。ご主人は説教で語られるとおりに行なっていらっしゃるのですね」
「いいえ。牧師も罪人ですから」
私は、この会話のやり取りを後で妻から聞いたときに、巧妙だなと思いました。人、特に指導者に目を向けさせようとしたからです。確かに行いのない信仰は死んだものです。しかし、人は行いによって救われるのではないのです。
パウロは嫌疑をかけられました。そこで5節以降から、反論が始まります。しかし、単なる反論ではなく、いかに教会を愛しているかがそこに表れていました(11・28節)。最終的に、パウロは「もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇る」と言いました。パウロにとっては、自分の弱さは神の恵みの表れそのものだからです(12章9節)。
この手紙を読んだコリントの教会のクリスチャンたちは、にせ使徒たちの薄っぺらなパウロへの嫌疑など、もはや目にもくれなかったでしょう。なぜなら、パウロの手紙には本物の信仰が輝いているからです。自らの強さを誇るのではなく、弱さを誇る信仰こそ本物の信仰なのです。あなたは、今日一日を自分自身の力で乗り切りますか、それとも自分の弱さを誇り、キリストの力をまとって乗り切りますか。弱さを誇る、本物の信仰によって歩みましょう。