ここで献金の話が登場して唐突に感じるかもしれませんが、献金は和解のしるしとしてここにふさわしいものです。またかつて献金の勧め(参照:第一コリント16章1節)が教会のつまずきとなったであろうことから、再度献金を依頼することで教会の立ち直り具合を見ることができます。パウロはマケドニヤの諸教会の様子を知らせます。マケドニヤの諸教会はコリント教会よりも貧しかったにもかかわらず熱心に献げたことを述べることで、コリント教会を奮起させようとしたのでしょう。これは競争意識を煽ることではなく、むしろキリストの謙卑に思いを寄せるためでした。献金は信仰のわざであることを覚えたいものです。私たちはどのような動機で献金をささげているでしょうか、またはささげていないのでしょうか。
テトスともうひとりの兄弟がコリント教会に派遣されます。これは献金について疑惑が生じないための保証人であると推測されます。献金はお金を扱うために周囲から不信感を抱かれやすいものです。いらぬ不信感を抱かせないためにも、献金は信仰的にも人格的にも信頼できる複数の人で取り扱うことが望ましいものです。