パウロに反対する偽教師たちは人間的な属性をもって自分たちの正当性を主張していたのでしょうが、パウロは苦難のなかにあらわれる神の恵みを主張しているのです。神のしもべとして生きるとは、恵みの神を中心に生きるということです。神中心に生きるなら、人生にどんな問題が降りかかろうとも揺れ動くことはありませんし、人間性に由来することは本質的なことでないとわかるはずです。このようなことから、パウロは自らの生き方をもって使徒としての正しさを証明しているのです。私たちもこのような生き方を全うしたいものです。
パウロはコリント教会と完全な関係修復を望んでいました。そこで神の和解に生きる教会として、パウロに対して心を開くようにと呼びかけているのです。なお和解(ないしは赦し)は神に由来することですから、妥協的な生き方にはならないはずです。コリント教会の問題であったこの世との妥協的な態度を棄てて、神の聖さに生きることが同時に求められています。