パウロは天的な生に希望を持っていたので、地上的な関心事に固執することはありませんでした。もし私たちが天的な生き方に関心がなく、ただ地上的な生き方しか関心がないならば、信仰の歩みはそこで止まってしまいます。
自分たちのために死なれたキリストの愛を知った者は、自分に死にキリストに生きる者となります。このキリストの愛がパウロの行動を動機づける力でありました。さらにキリストの愛を知ってから、人を人間的な標準で知ることをやめました。かつては重要だと見なしていた人間的な立場の誇りは、今のパウロにとっては無価値のものとなりました(参照:ピリピ3章8節)。「キリストにある新しい創造」(17節)という視点から人を見ているのです。私たちは依然として人間的な標準で自分や他人を見てはいないでしょうか。
キリストにある新しい創造は、人間からではなく神から生じたことであり、それも神の人間に対する和解の結果として生じたことです。ですからキリストの福音に生きるとは神の和解に生きることです。もし福音を知っていると言いながら和解に生きていないとしたら、どこかに問題があります。