パウロはキリストの栄光にかかわる福音に生きているからこそ、神の言葉を曲げずに真っ直ぐに生きてきました。もし福音を受け入れなかったり福音に対して真っ直ぐ生きていなかったりすれば、その理由は福音それ自体や福音の伝え方にあるのではなく、この世の神(サタン)によって思いをくらまされて福音を拒んでいる人の心にあるのです。それがわかるからこそ、キリストの福音を疑わずに語り続けることができたのです。私たちも伝道の方法論に悩みすぎないで、むしろ人々が福音に心を開くように神に祈りたいものです。
パウロが手紙のなかで自分のことを述べているのは、自分の宣伝をしたいからではなく、ただキリスト・イエスを宣べ伝えたいからだけなのです。もし自分の魅力を前面に出して宣べているならば、キリストの魅力が隠れて相手に伝わりません。またそれは福音を宣べているはずの者たちが、実は福音の持つ力に頼らないで、自分たちの魅力に依存していることになり、大きな問題となります。逆に、たとえ自分に人を引きつける魅力に乏しくても、それがキリストを宣べ伝えることの妨げにはなりません。自分自身に対する魅力のなさからキリストを伝えることを躊躇するのも、自分の魅力を宣伝するのと同様に問題なのです。
弱くて価値のない土の器のような人であっても、栄光に輝く宝のようなキリストの福音を内に入れているからこそ尊いのです。土の器のような存在であるから様々な困難を経験しますが、宝のようなキリストがともにおられるからこそ、困難は困難で終わることはありません。困難を経験したときにこそ、キリストに目を留めたいものです。
私たちの人間性が危機にさらされたとしても、勇気を失ってはいけません。なぜなら、キリストによって私たちの内なる本性は日々キリストに似たものとして新しく変えられているからです。今の困難が、未来の栄光をもたらすと信じるなら、今の困難に耐えることができるでしょう。信仰とは人間の感覚や経験に頼ることではなく、神の約束に信頼を置くことにほかなりません。