パウロはコリント教会の礎を築いた使徒でしたから、推薦状がなければコリント教会に来たり指導したりできないという批判は論外です。ここでパウロは、コリント教会の存在自体が自分の推薦状であると主張しています。これは制度としての教会というよりも、キリスト者としての生きた証しがあることを指しているようです。すなわち、彼らの生活が神への服従へと変化したこと、御霊の実があることを言っているようです。
「文字は(人を)殺し、御霊は(人を)生かす」(6節)の「文字」とは律法のことを指しますが、ここではパウロの反対者らに特有な律法主義を批判しているものと思われます。パウロの批判者らは形式や外的権威を重んじていたようです。しかしキリストの福音は御霊による実質的変化、内的変化をもたらします。ですからここを読むと、推薦状という形式や外的権威よりも、教会の内的変化に目を留めるようにと促されます。私たちは自らのあり方について、どこに目を留めているでしょうか。
「主は御霊です」。これは「御霊は主です」と読んでもよいでしょう。なぜならパウロがこの章で御霊の働きがキリスト者の内的変化をもたらす上で支配的であることを述べているからです。「御霊の自由」ということを、自らの勝手気ままな生き方の口実にしてはいけません。この自由とは「主と同じかたちに姿を変えられる」自由を指しています。義への自由です。律法のわざによっては不自由さしか生じませんが、主なる聖霊によって私たちは聖められているところなのです。私たちは御霊の自由を何に使っているでしょうか(参照:ガラテヤ5章13節)。