パウロが前にコリント教会に対して厳しい手紙(涙の手紙)を書き送った目的は、教会を悲しませるためではなく、教会が悔い改めて真の喜びに満たされるためでした。それも愛によるものでした。私たちも聖書や教会を通して叱責と戒めの言葉を聞いたならば、単に悲しむことで終わらずに、心から悔い改めて真の喜びに至りたいものです。また私たちが教会に対して戒めの言葉を発するならば、愛を動機として真の喜びに至ることを目的として行いたいものです。
違反者に対して何も戒めないことも問題であるのと同様に、違反を悔い改めた者をいつまでも赦さないことも問題です。なぜなら、処罰は制裁が目的ではなく、悔い改めていのちを得させることが目的だからです。主も、悔い改めた者を赦すべきであることを教えておられます(参照:マタイ18章22節)。また赦しとともに、慰めることも必要です。悔い改めた者が悲しみと失意に陥らないためにです。
パウロは何ごともキリストの福音のために行っておりました。キリストの福音に真っ直ぐに生きる者は、様々な困難を経験するとしても、最後には必ずやキリストの勝利にあずかる者となります。それは私たちによらず、力と誠実さをもった神によるからなのです。キリストの福音に対して、受け入れる者もいれば受け入れない者もいます。私たちはしばしば相手に拒否されることを恐れて、福音を水増ししてしまう誘惑があります。しかし、キリストの福音を受け入れた者にはいのちの香りが、受け入れない者には死臭が漂うという厳然たる結末が待っていることを覚えたいものです。また常に「神の前に」という意識をもってキリストの福音を真っ直ぐに語りたいものです。