14章の結びとして、パウロは、「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい」と公同礼拝についてコリント教会に勧めました。そして、15章では、その礼拝の基盤となる「福音」について語っています。
パウロは、ここで、「最もたいせつなこと」として、イエス・キリストの死と復活を中心に述べています。これは、何も真新しいことではなく、パウロが、コリント教会で宣教していた福音です。それは、福音が、キリスト教会では最も基本的な、根源的なものであるからです。つまり、パウロとコリント教会を結んでいるのは、ただ「福音」のみなのです。
パウロは、「救われる」と経過を表す現在形を用いて、福音の継続的な応答の重要性を強く語っています。それは、福音をしっかりと自分のものにし、また、「よく考えもしないで信じたのでないなら」(2節)という軽はずみな応答への注意を示しています。
パウロは、ここで、キリストの死と復活の内容を具体的に述べています(3〜4節)。キリストは、私たちの罪ために身代わりに十字架につけられ死なれました。それは、聖書が示すとおりに(3節)、実に、私たちの罪が赦されるためです。これは、単なる過去の出来事ではなく、今なおキリストは生きているということです。これが、根本的な真理であり、事実です。
パウロは、キリストの復活の確かさを、実際に復活したイエス・キリストと出会った人々を挙げることによって確証します(5〜8節)。また、パウロ自身も、復活の主キリストに出会った経験ゆえに、イエス・キリストが実際によみがえったことをさらに強調しています。
では、なぜ、パウロは執拗にキリストの復活を強調しているのでしょうか。それは、コリント教会の信徒の中に、「死者の復活はない」(12節)と主張する人々が現れてきたからです。また、そういう人が現れたことによって、コリント教会の中で様々な「福音」に関する考えが出てきました。
パウロは、ここで、「福音」はひとつであり、それは、キリストの十字架の死と復活であり、特に復活は、教会のすべての者が認めるべき明らかな事実であることを強調しています。また、キリストの復活とキリスト者の復活とが何よりも深く結びついていることを主張しています。なぜなら、一方を否定することは、他方も必然的に否定することになるからです。もし、死者の復活がなかったら、根本的前提に立って、偽りの宣教、偽りの承認、むなしいものを信じ続けていることになる、とさえパウロは強調しています。(16〜19節)
キリストは、「罪のために死なれた」だけでなく、「信じる者が義と認められるためによみがえられた」ということが事実でない限り、罪からの解放はありえない、と言うのが、パウロがこの箇所で言わんとしている一番の主張です。
そして、パウロは、20節からキリストの復活の結果について述べています。20節で、キリストは、「眠った者の初穂として」とあります。この初穂とは、イスラエルの祭儀において、初穂を捧げることはその全体を捧げることを意味しました(レビ23章10〜14節)。そして、それは、初穂として復活されたイエス・キリストの復活は、キリスト者全体の復活を代表するものであるという意味でもあります。最初の人アダムの罪によって、すべての人が死んでいるように、イエス・キリストにあって、すべての人が生かされているのです(22節)。キリストの復活こそが、キリスト者の希望であり、死んでも生きるという意味なのです。