チェコ共和国のある町に、ヤンという男の人がいました。彼には、病気で亡くなった奥さんとの間に生まれた5歳になるたった一人の息子マイケルがいました。
ある日、マイケルは父ヤンに言いました。「お父さんの仕事場に行ってみたい」と。普段は、仕事中、近所に住むヤンの妹の家にマイケルを預けているのですが、その日は、妹家族が出かけなければならないと言うことで、ヤンはしぶしぶ息子の願いを聞きました。ヤンの仕事は、川に架かった鉄道橋を大きな船が通るたびに開けたり、閉じたりする、いわゆる開閉式鉄橋の連絡員でした。
初めて父の仕事場に来たマイケルは、見る物すべてに興味津々。
「マイケル、あまり遠くに行ったらダメだぞ。お父さんに見える範囲で遊ぶんだぞ」とヤンは言いつつ、実は、そんな大はしゃぎする息子を見るのは、妻(マイケルの母)が1年前に亡くなって以来、久しぶりのことでした。
しばらくして、いよいよ汽車が橋に差しかかるというときに、ヤンはマイケルが見あたらないことに気づきました。迫り来る汽車を目の前にして、必死にマイケルの名を呼ぶヤン。そして、どこからともなくかすかな叫び声が聞こえてきました。それは、まさしくマイケルの声でした。
「お父さん、助けて。大きな歯車に挟まれて、出れないよ」
マイケルは、鉄橋の下にある歯車に服が挟まれて、今にも歯車に巻き込まれそうになっていました。
父ヤンの心は、さまざまな思いでかき乱され、悩みました。今、鉄橋を止めたら、息子が助かる。しかし、汽車に乗った乗客は、そのまま鉄橋にぶつかり、汽車は川に転落して、多くの人が死んでしまう。ヤンは、去年亡くなった妻や、マイケルの成長の過程を混乱しつつも思い出していました。
そして、ヤンは、開閉のレバーを涙一杯に握り閉め、鉄橋を最後まで下ろしました。
息子の泣き叫ぶ声が聞こえなくなり、やがて目の前を、これからピクニックでも行くかのような家族連れや外を眺めている女性、編み物をしている老婦人、本を読んでいる紳士などが通り過ぎていきました。
汽車が通り過ぎた後、ヤンは急いで橋の下に行きました。そこには、もうさっきまではしゃいでいたマイケルの姿はありませんでした。変わり果てた息子の体を抱き上げ、ヤンは、神様に祈りました。
「なぜ?」
何回も何回も神様に叫びました。叫ぶなかで、どこからともなく「驚くばかりの恵み(Amazing Grace)」が聞こえてきました。それは、信仰深かった妻がいつも歌っていた曲でした。そして、ヤンは初めて、イエス・キリストの十字架の死と復活の本当の意味を知ったのです。
神様はあなたを罪の罰から救い出すために、ひとり子イエス・キリストをお与えになりました。イエス・キリストの十字架の死と復活は、神様の究極的な愛の表れです。そして、パウロは、第一コリント13章で、この愛を頂点とした「愛」を述べています。つまり、「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15章13節)という犠牲的な愛のことです。
ヤンのように、愛する息子を犠牲にしてまで、多くの人を救ったのと同じように、いかに素晴らしい御霊の賜物(ここでは預言と異言)を持っていたとしても、そこに愛がなければ、根本的な御霊の賜物の意味を失ってしまうことを、パウロはこの章で強く主張しているのです。
神を愛し、人を愛することは、容易なことではありません。時に、ヤンのように何とも言い難い経験をすることさえあります。言うならば、もし、ヤンに人を愛する心がなかったなら、愛する息子を犠牲にして、涙一杯に開閉レバーを下ろすこともなかったでしょう。これは、神様が私たちを罪から救い出すためにひとり子イエスを涙ながらに与えてくださった「愛」を描写しています。このキリスト・イエスを通しての愛を聞き、信じ、伝えたときに、本当の愛の素晴らしさを見出すことができるのです。
また、このキリストにある「愛」なしでは、いかなる御霊の賜物も何の値打ちもありません(2節)。愛は、どのような態度や行動に対しても、他人を受け入れ続けることができます。また、愛は、和解の福音(神と人の和解)を聞き、信じ、伝え、生きる者に力を与えます。愛は、ともに喜び、ともに泣くことができます。愛は、簡単にあきらめたり、放棄したりせず、いかなる環境にあっても、常に神の恵みを待ち望みます。愛こそ、すべての行動において、特に教会のなかに注がれた御霊の賜物を真に生かすことのできる原動力なのです。愛なしでは、すべての御霊の賜物が生かされないことを、パウロはこの章で強調しているのです。
パウロは、この章の結論として、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているものは愛です」(13節)と述べています。キリスト・イエスの十字架の死と復活は、実に、愛に根ざした信仰と希望を生み出す究極的なものなのです。そして、この愛こそ、信仰と希望の源で、そして神様と私たちの交わりの基盤であることを、パウロは、コリント教会だけではなく、イエス・キリストを信じるすべての者にすすめているのです。
愛をもって、神のため、人のために御霊の賜物を用いるとき、そこに本当の喜び、人生の素晴らしさを見出すのです。