コリント人たちのこんな態度に読者である私はいらいらせずにはいられないのですが、それは実は、彼らの姿があまりにも自分の鏡であることが多くあるからです。礼拝中の問題の第3は、霊の賜物が無秩序に表現されていたことでした。そしてその無秩序は、やはり、お互いを尊重せず、虐げられた人がいたという現実の現れでありました。
キリストに連なる人には神様から「みなの益となる」(7節)ように、さまざまな能力が与えられています。ですから、それらはお互いが一致して励ましあうためであって、能力自慢大会のために与えられたのではありません。
お互いの違った長所を、受け入れて神をあがめる心を忘れたときに、礼拝ですらも、能力自慢大会になってしまうという、これは恐ろしいことです。
一見、賜物に恵まれていると思われる人は、それが自分のためではなく、弱い立場にある人、助けを必要としている人のために与えられています。そして、預言や異言以上にすばらしい賜物が、すべてキリストに連なるものに与えられているのですが、それはいったい何でしょう?!・・・明日のお楽しみです。