コリント教会の礼拝における問題点の2つ目は、主の聖餐についてです。初代教会においては、いわゆる「聖餐式」というのはいわゆるプラスチックカップと四角いパン切れをいただくのとはちがって、食事の形式をとっていたようです。しかし、どちらにせよその意義はキリストにある一致と、その基盤となっているキリストのあがないの尊さです。コリントの教会では、そのことを無視して、他の信徒たちを押しのけ、食事にありついている人々がいたので、そのことをパウロは正そうとしています。そして、キリストのあがないの犠牲が偉大であるがゆえに、それをわきまえないで主のからだと血に与るものは、「神のさばき」を招くといわれています。
ここで言われている「ふさわしくないままで」とは、コリントの状況の中で考えるならば、分裂分派があり(18・19節)、「めいめい我先に」という利己主義な態度のことをさしていると考えられます。このような利己主義、分派主義は、この手紙のなかでたびたびパウロが指摘している、コリント人たちの霊的な欠点です。そのような罪のゆえに、礼拝の秩序も乱れ、混乱をもたらしていた様子がわかります。
では、秩序があって、混乱さえ避けられていたらよいのでしょうか?決してそうではないでしょう。最大の問題は、信者の利己主義と分派です。キリストのあがないを感謝すればこそ、「我先に」という思いや、兄弟姉妹を退ける思いを取り除くことができるように祈っていかなければならないと思わされます。