今日の箇所から、パウロの議論はコリントの信徒たちの礼拝中に起こる問題に移っていきます。これまでの部分が、パウロがコリントからの手紙に書いてあった質問に答えていたのに対し、11章から、パウロが報告を受けたことに対して忠言を与えているというかたちになります。
第一の問題は、礼拝中の「服装」についてのようです。コリントの教会では、礼拝中に男性も女性も預言、すなわち神から賜った言葉を発言していたようですが(4・5節)、そのときに女性はかぶりものをし、男性はかぶりものをしないという習慣があったようです。それがどういうわけか、男性も女性も、その服装についての習慣を軽んじるようになっていると言う報告をパウロは受けました。男性はかぶりものをせず、女性はかぶりものをするというのは、一概にユダヤの習慣であると言うこともできなければ、異邦人の間で受け入れられていた習慣であると言うことも、歴史的資料から見て難しい点が多くあります。しかし、礼拝という秩序の中では、少なくともパウロによれば、かぶりものは、創造の秩序を象徴するものでした。すなわち、人が男性と女性に造られたこと、そして、その二者の関係は神とキリストの関係に連なる親しいものであると言うことです。10節で「権威のしるし」と訳されている語は、実はただ、「権威」というギリシャ語です。その秩序が守られている以上、そして、預言が「徳を高め、勧めをなし、慰めを与える」(14章3節)ものである限りにおいて、女性も男性も、預言をすることが認められているのです。
3節で述べられている、「男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。」というのは、一見すると、女性は男性より劣っている、というメッセージに取られがちですが、ここで、キリストのかしらが神であると言われていることに注意する必要があります。女性と男性の関係は、キリストと神の親しい関係に連なる創造の秩序として、説明されています。
今日、男性が長い髪をしていても、女性がショートカットでも、それを不審に思う人はほとんどいないでしょう。いったい、パウロの時代のコリントにおいて、何が習慣的に受け入れられることで、何がタブーであったか、断定することは難しいのですが、はっきりとしているのは創造の秩序が礼拝という文脈のなかで表現されていたということです。それは、一般のギリシャ・ローマ社会における妻は夫の所有物であるという状態からはかけ離れた、「女は男を離れてあるものではなく、男は女を離れてあるものでは」ない、というお互いが存在しないと成り立たないという関係です。
今日男女平等を唱える人たちが陥りがちな罠は、「女性の男性化」です。女性が、従来の男性と同じ事を、同じようにすることが男女の平等であると勘違いしている人が多いのです。女性の社会進出や、女性が政治や歴史をつくっていくことが推奨されるとき、もし女性が今までの男性と同じように政治や歴史に参与していくことしか求められていないとしたら、弱い者を黙らせ、支配する体制が変わることは期待できるでしょうか。今日の教会は女性の活躍を除いては成り立ちません。神の創造の御手の中に生きている、そのことを知っている教会が、男性にとって、女性にとって、どのような場所であるか、創造の秩序と神とキリストの関係に照らし合わせて、吟味すべき時ではないでしょうか。