第35水曜 Iコリント10:1-22



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

『兄弟姉妹のことをおもって』

 宮で偶像にささげられた肉を食べていた人たちにとっては、その行為は単なる社交的なものに過ぎなかったかもしれません。しかしその霊的鈍感さが、自らと他の信者たちを、神を試す者、むさぼる者、姦淫する者、つぶやく者におとしめかねない、とパウロは注意をしています。水を通って、御霊の食べ物を食べ、御霊の食べ物を飲んで、なおかつ荒野で滅ぼされたイスラエルの人々の予型は、水によってバプテスマを授かり、キリストの体と血をいただいている私たちもドキッとさせられます。パウロは、「神は真実な方ですから、あなたがたを絶えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません」(13節)と励ましながらも、厳しい警告を与えてくれます。「知識」や「新生の経験」、「聖礼典」ですら、それだけで自動的にキリスト者を偶像礼拝から守ってくれるものではありません。逆に、それらの特権を理由に高慢になった時、その高慢さが私たちを「悪霊と交わるもの」に変えてしまう力があることを忘れてはなりません。

 10章23節〜11章1節は、8章の初めから続く一連のパウロの議論の結論部分です。要するに、パウロは何が言いたいのか。結論としてまとめると、まず、私たちは与えられた自由を他の人、特に主にある兄弟姉妹を思いやる気持ちを持って用いるべきこと。そしてそれこそが、「神の栄光のため」であるということです。また、そのなかで、肉を食べるか食べないか決めるべきで、もし食べるなら神に感謝をささげて食べよ、ということになります。

 3章にわたって議論されてきた「偶像にささげた肉」の問題点が、「肉そのもの」よりもむしろ、自分たちの知識を誇って、教会のなかで知識においても信仰生活においても弱い立場にある人たちをばかにしていた、コリントのある信者たちの態度にあったことが明らかになりました。

 日本人はとかく、相手を思いやることを重視するといわれますが、それでも、自分の権利や自由を主にある兄弟姉妹のためにあきらめるというのは、場合によっては非常な自制を伴います。教会のなかで自分の主張をする権利、もしくは相手を黙らせる権利、格差社会の世の中に迎合する自由、弱者を知らないふりをして踏みにじる自由、君が代を歌う自由・・・などなど。パウロは決して、自由や権利を捨て去れ、と言っているのではありません。しかし、キリストにつながっている者たちにとっての自由と権利の用い方は、キリストを知らないときと変化しているべきではないか。そこでは、「キリストにならう」(11章1節)ということが、考える者によいヒントを与えてくれるはずです。


【信仰告白】

[2] 使徒信条