まだクリスチャンになりたての、10代後半のころから、コリント書簡のパウロの言葉には、はっとさせられるものがありました。しかしコリント書はまた、全体として読むと、難解な書だという印象がありました。第1・第2コリントは、パウロとコリントのキリスト者たちとの往復書簡の一部ですが、往復書簡の他のものは失われています。そこに、読解の難しさがあります。しかし、それでも、パウロの言葉が現代の私たちに響く理由は、不品行や偶像礼拝、貧富の差や、分派主義、牧師批判などなど、コリント人たちの問題が今日の私たちの周りで起きている問題と非常に近いというところにあるのではないでしょうか。
コリント人への手紙を通読してきた方なら、25〜27節を見て、あれっと思われるかもしれません。7章2節では、「不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい」とあるのに、27節、28節では、「妻を得たいと思ってはいけません。しかし、たといあなたが結婚したからといって、罪を犯すのではありません。たとい処女が結婚したからといって、罪を犯すのではありません。ただそれらの人々は、その見に苦難を招くでしょう」とはいったいどういうことなのでしょうか!しかも、新改訳の第二版では、「処女のことについて」(25節)とあるのに、26節以降では、男性に対して言われているようです。しかも、「私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみによって信頼できるものとして意見を述べます」と断り書きをしているパウロですが、この「意見」はコリント人たちのみにあてはまることなのか、それとも今日のクリスチャンである私たちにとっても生活の規範なのか???いろいろな疑問がわいてくる箇所です。
まず、7章2節との関係ですが、2節以下の言葉は既に結婚している人たちへのアドバイスであり、25節からはまだ結婚していない人たちへ向けられていると考えることで解決がつきます。事実、2節は文法的見地からも、「持ち続けなさい」と訳すことが可能です。つまり、25節以下では、結婚の約束をしているカップルについて言われていることのようで、27節で、「妻に結ばれている」とは、婚約していいなずけの関係になっているということであって、すでに夫婦として生活している婚姻関係をさしているのではないことは、パウロが「処女」について語っているという文脈から明らかです(「妻」というギリシャ語は「女性」と訳すことも出来ます)。そして、パウロがここで勧めていることは、「おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい」(20節)という前述の言葉と一致するところです。
では、そのアドバイスの内容はというと、「結婚しても罪にはならないが、結婚しないほうがよい」というのです。26節で「男」と訳されている語は、性別を強調しない一般的な名詞ですから、「人」と訳されるべきでしょう。しかしいずれにせよ、「処女」である女性の側についてのことであるのに、アドバイスは男性に語られています。紀元1世紀の、男性中心の社会の一面がうかがわれるところです。
では、なぜ結婚しないほうがよいのか?パウロによれば、結婚を含めた世のあり方、人々が毎日の生活を送るのに一喜一憂すること、買うこと、所有すること、富を用いること(30〜31節)、それらのことは永遠に続くものではない。パウロにとっては、夫婦のあいだも「永遠の輝き」ではなく、あくまで「死が二人を別つまで」。信者たちがキリストにあって神と永遠に交わる日までの一時的な形態に過ぎないと考えていたようです。キリストの死と復活によって新しい時代がおとずれた今、独身のままで主に奉仕したほうが、「心が分かれる」(34節)ことなく使えることができるとも言っています。「現在の危急のとき」とは、必要に迫られているとき、つまり、キリストにある福音のおとずれを宣べ伝えるべきときのことです(参照:9章16節。「危急のとき」と訳されている同じ名詞が、「どうしてもしなければならないこと」と訳されています)。終末が近いというパウロの危機感が感じられます。36〜38節で「自分の娘である処女」と訳されているのは、むしろ「自分のいいなずけである処女」と訳すほうが妥当だと考える学者が今日では多いようです。
それでは、結婚はしないほうがいいのでしょうか?パウロは「然り」と言うでしょう。しかしそれも、「あなたがたを束縛しようとしているのではない」といいます。そして、夫に先立たれた未亡人も、未婚のままでいられたらそのほうがよいが、「結婚する自由がある」というのです(39・40節)。どう決断するにせよ、「主にあって」、つまり、神に奉仕する上で各人の益となるように、というパウロの勧めです。
これはあくまで主にあって考慮した自分の「意見」であると謙遜に告白するパウロですが、今日私たちはこの箇所から何を学ぶべきでしょうか。この箇所の難しさは、パウロの言っていることを限定することよりも、その言われていることを今日どのように適応すべきかにあるように思われます。パウロが告白しているように、同じような教えを福音書のキリストの言葉に見つけることはできません。しかも、紀元1世紀のギリシャにおける習慣と、今日の日本における習慣が、かなり違うことも、この箇所が「難しい」理由の一つです。
しかし、これを言うパウロにとっても、私たちにとってもはっきりしていることがあります。それは、キリストにある者は永遠に続く、来るべき完全な神の国の価値観に立って生きるべき、否、生きることができるということです。その永遠の神の愛、聖、義、善、真理に、キリストにあってあずかる者として、神と隣人を愛する生活に私たちは常に導かれ、うながされているのです。
さて、最後になりますが、結婚は神様が創造の初めから定められたことであります。しかし、結婚しなければならない、あるいは、結婚してやっと一人前のクリスチャンだとは、パウロは決して言っていないのです。確かに、「監督について」という有名な箇所で、「ひとりの妻の夫であり」(第一テモテ3章2節)とありますが、それは「複数の妻を持っていない」ということであって、必ずしも監督になるべき人は結婚していなければならないという意味でないことは明らかです(使徒パウロは独身だったのですから!)。日本の教会における独身者について、じつは、パウロ先生のお言葉にわたくしたち教わるところが多い・・・のかもしれません。