第34土曜 Iコリント7:1-24



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 7章では結婚についての教えが記されます。しかし、ここで注意したいのは、不品行を避けるというテーマに基づいて、結婚が語られているということです。
 なぜこのことが大切なのでしょう。それは基本的にすべての人が結婚するべきとはパウロは語っていないからです。パウロは結婚を勧めます。しかし、それは不品行を避けることができない人に対してです。独身であろうとも不品行を避けることができるのなら、それで良いのです。

 冒頭「男が女に触れないのは良いことです」(1節)というのはパウロのではなくて、コリントの信徒たちの主張です。コリント教会では、一方で自由を称して好き放題に不品行を容認していた人々と、その逆に、不品行を徹底的に避けようとして結婚や夫婦間の性の営みさえ避けようとしていた人々がいたのです。パウロは確かに、自由気ままに欲望のままに生きる人々をたしなめました。しかし一方で、間違った独身主義と言いましょうか、行き過ぎた潔癖主義もまた否定するのです。
 「不品行を避けるため、男が女に触れないのは良いことです!」「不品行を避けるため、男女が結婚しないことは良いです!」「不品行を避けるため、結婚した夫婦が性の営みを持たないことは良いことです!」 性というものを単に汚れた物とだけ捕らえるがゆえの潔癖です。
 しかし、パウロの結婚観は違います。結婚は主の祝福であり、結婚における性の営みの大切さをはっきりと語ります。そしてそれは同時に、結婚関係以外の性関係の完全な否定をも意味しています。その行為が不品行かそうでないか。それは結婚という神が引き合わせた関係のなかでもたれたものなのか、そうでないのかによって明らかにされるのです。
 性とは本来、神が結婚した男女のために備えられた神の祝福です。私たちにとって誘惑となることが、しかし神の定められた結婚という枠組みのなかでは祝福となる。だから、「男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい」(2節)なのです。
 不品行を避けなさいと言っていたパウロです。しかし結婚という関係のなかでは、もはや避ける必要もない。避けるどころか、それがそのまま神の祝福とされるのです。誘惑であったものが、今や祝福とされる。これは究極の不品行を避けることではないでしょうか。

 結婚した夫婦については互いにこの性の権利を奪い取ってはならないとパウロは語ります。互いを愛すること、愛されることを拒んではならないと語るのです。それは、結婚してなお、互いの想いが外に向けられないためにです。性の営みというと、とかく否定的に思われやすいですが、しかし、夫婦におけるそれは、二人を一体とするための大切な要素です。どちらかの一方的な理由でこの関係が破られることは危険であるとさえ考えた方が良いでしょう。夫婦の正しい関係が築かれていないから、互いは再び外の世界へと目を向けるのです。埋まらない欲求を埋めるために、簡単に誘惑になびいてしまうのが私たちです。正しい結婚の枠のなかに生きる。これが、誘惑を祝福と変える秘訣です。

 パウロは、「ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです」(17・20・24節)と言います。それはつまり、おのおのが違っていてもよいということです。人はそれぞれに神の許された生き方があります。パウロは結婚について教えます。しかし、誰彼となく結婚すればいいと言っているわけではありません。結婚も、独身も、神の賜物です。
 割礼か無割礼かということにも、パウロは何の重要性も見出しません。強要することなく、そのままでいなさいと語るのみです。奴隷であるか自由人であるかについてもそうです。自由人になれるならなればいいし、なれなくても気にする必要はない。たとえ奴隷のままでいても、召された者は神の子であり、栄光ある自由な身分を得ているのだというのです。結婚していても未婚でも関係ない。割礼を受けていてもいいし無割礼でも構わない。奴隷でも自由人でも・・・。
 神が用いられるのに、それらは何の障害でもありません。こんな私さえも主は用いてくださる。こんなちっぽけな者さえも目を留めてくださる。・・・と、誰しもが思っていいのです。神はあなたの境遇を見てあなたの価値を見出されるのではありません。私たちが置かれた状況の違いこそが、多種多様な神の用いられ方の表れ、神が備えられた賜物です。他の誰でもなく、私がそこに置かれていることの意味がここにあるのです。


【信仰告白】

[2] 使徒信条