6章の前半でパウロは、コリントの信徒たちが互いを裁判に訴えるという問題について記します。しかし訴えることの何が問題なのでしょう。それは教会が自ら解決をするだけの自浄作用を有していないということです。これが問題です。教会が罪を罪として見ず関わろうとしないので、信徒たちは外に訴えて問題の解決を図るしかなかったのです。しかし、そこに真の解決はありません。なぜなら、この世の正義は永遠のものではないからです。歴史がそれを証明しています。世の裁きとは、その時代の制約のなかでの正義でしかありません。永遠に変わるところのない正義とは、実は教会だけが持っています。神のことばです。ですから、教会だけが永遠に変わることの無い真の正義によって裁くことができるのです。
パウロは裁きの大切さを語りました。しかしそこに望む解決があるのではありません。解決はその先にあります。赦しあうことです。パウロはむしろ「争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか」(5節)と言っています。「互いに訴えあうことが、すでにあなたがたの敗北です」(7節)とまで言っています。裁くための裁きではなく、赦すため、和解するための裁きです。これが教会の裁きなのです。私たちはイエス様の姿を思い起こしましょう。イエス様は、不正を甘んじて受け、だますより、だまされることを選び取った方でした。私たちもまたこのイエス様に倣いたいと思います。
6章の後半は、再び不品行について記されます。この箇所によると、不品行の問題の根っこは、どうやらコリントの人々が自分自身のからだというものを正しく理解していないことが原因のようです。
パウロは自身のからだを主のためのものと言っています(13節)。私たちは私たちの受けた恵みの大きさを知って初めて、それに相応しい己であることを求め始めるのです。ここがスタートです。私は主のもの。だから・・・と、パウロは続けて、私たちがなぜ不品行を避けなければならないのか、なぜからだを聖く保たなければならないのかについて語るのです。
1つは復活の恵みに与るがゆえに。2つはキリストと一つとされる恵みのゆえに。3つは聖霊の宮とされる恵みのゆえにです。
パウロは「神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいました」(14節)と言います。主の復活を考えてみれば、からだが如何に大切なものであるかがわかります。主はからだを持って人となられ、そしてからだを持ってよみがえられたのです。そして同じように、来るべき日の私たちの復活は肉体を持ってなされるのです。だから私たちのからだは決してどちらでも良いものではありません。私たちのからだは将来あるものとして取り扱うべきものなのです。復活の出来事はからだが永遠の価値をもつということを証明しています。
パウロはさらに、私たちのからだはすでにキリストの一部とされていると言います。ですから「キリストのからだを取って遊女のからだとする」(15節)ことは、一つはキリストとの関係を取り返しのできないくらいに無残に引きちぎる行為であり、一つはもう引き離すことのできない関係を遊女と結ぶことを意味します。不品行の罪とは、実は、キリストとの深い結びつきを破り捨てる反逆の罪と、遊女との深い結びつきを選び取る背信の罪の、二重の罪を犯すことを意味しているのです。
私たちの希望は、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり」(19節)という言葉です。御霊なる神は私たちの内に住まれ、私たちとともに歩き、絶えず私たちを教え導かれるのです。以前パウロは教会が神の宮であると言いました。それは教会という宮において、神は私たちと出会われるということでした。しかしこの箇所でパウロは「あなたがたのからだは・・・聖霊の宮である」と言います。私たちのからだをもって、御霊なる神は私たちとお会いになるというのです。
これはすごいことです。不品行は自由かそうでないかと言っている次元とは全く違います。人のからだをこのように取り扱われる神様とはいったい何なのでしょう。これほどまでに尊く認めてくださるお方がどこにいるというのでしょう。不品行に身を委ねているすべての人はこの言葉に耳を傾けるべきです。我が身は我のものと主張するすべての人は知るべきです。主と交わる者への、神の取り扱いがいかに尊いものであるかをです。