第34木曜 Iコリント5:1-13



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 5章から、パウロはコリント教会の具体的な諸問題を取り上げます。5章は不品行の問題です。コリント教会では異邦人のなかにも見られないほどの不品行が横行していたのです。「それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています」(2節)。パウロは、コリントの信徒たちが、キリストにある自由と解放というものを完全に履き違えていたことを指摘しています。つまり彼らはキリストの赦しのゆえにどんな行為をしても構わないのだと考えていたのです。そしてそのように自由な身分を得た自分たちを誇っていた。彼らは自らの不品行をも赦されたこととして捉えていたのです。パウロはこれを怒っているわけです。なぜなら、これは教会が神の聖さというものをあまりにも軽んじているからです。キリストの十字架の贖いを自分勝手な言い訳の道具に利用しているからです。

 不品行に対するパウロの対応は大変厳しいものです。「主イエスの御名によってすでにさばきました」(3節)、「主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡した」(4〜5節)。神の愛を語るパウロには相応しくない言葉です。けれど、これは教会が教会であるために必要な厳格さです。なぜなら、パウロのこの厳しさによって初めて、その罪を犯した人に悔い改めの余地が生まれるからです。
 私たちは自らの罪に気付くことがなければ、悔い改めることはできません。なんでも曖昧にしてどうでもいいという世界では、罪の悔い改めは起こらないのです。コリント教会は福音を自分勝手に理解して罪という問題を見ようとはしませんでした。正しいことを正しい、間違ったことを間違っていると指導することができませんでした。
 パウロは「彼の霊が主の日に救われるためです」(5節)と言いますが、これが大事です。教会が、罪を犯した者に悔い改める機会を与えずに、かえって悪を奨励するようなことがあってはいけないのです。私たちがどれだけ見ない振りをしても、神はそれを見逃されません。私たちがそれを見なければ、神がその者を裁かれるのです。ですから、教会が互いを教えあいなさいというのはこのためです。

 私たちが恵みの民だからこそ、救いに与り、流された血潮の尊さを知るクリスチャンだからこそ、私たちは罪を曖昧にしてはいけません。罪を罪と認め、絶えず悔い改め、そして互いを教えあう。それは言い換えるなら、悔い改める者をいつでも受け入れる用意があるということでもあります。そうです。私たちは戒めるとき、それは悔い改めるその人を赦すという前提の下で戒めるのです。「彼の霊が主の日に救われるため」に、私たちは互いに教えあいながら、互いに支えあいながら、純粋な心と真実な行いによって、神に従う者でありたいと思います。


【信仰告白】

[2] 使徒信条