「キリストのしもべ」「神の奥義の管理者」と呼ぶことによって、パウロは、自らは主人ではないということを強調します。教会においては指導者であるパウロやアポロ。しかし彼らはキリストのしもべにすぎません。
管理者とはあくまでも主人に管理する働きを任された者のことで、つまり雇われ管理者です。真の管理者はキリストですから、雇われ管理者に必要なのは、主人と任された働きに対する忠実さというわけです。いかなる者が何と言おうとも、何を要求しようと、何を渡そうと、何と批判しようとも、委ねられたものを完全に保持すること、正しく管理すること。これが神の奥義の管理者というもの。この立場をはっきりとさせているからこそ、パウロはコリントの人々の評判や、評価は自分にとって小さなことだと言い切れるのです。
キリストのしもべは何に対して忠実であるのかと、いつも私たちは問われています。私たちは何に対して忠実でしょうか。誰の関心を買おうとしているでしょうか。人の批判を恐れて、人の裁きを恐れて、御言葉を妥協することはできません。私たちは神の前にこそ、その行為を照らし出さなければいけないのです。「私をさばく方は主です」(4節)
養育係は機嫌を取ることはしても、子のために叱ることはしません。雇われている身分だからです。霊的退廃を招いている信徒たちを心から気遣ったり、正しい道に連れ戻そうとしたりしない者は、すべて養育係にすぎません。子に必要なのは、多くの養育係ではなく、たった一人の父親です。パウロは父親として、子であるコリントの信徒に言います。「どうか私にならう者になってください」(16節)。
親が子どもに向かって「お父さんのようになりなさい」とか「お母さんのようになりなさい」とは、なかなか言えないことです。もちろん親だけではありません。誰かに向かって「私のようになってください」とは、なかなか言えない言葉ではないでしょうか。それは間違っている相手だけではなくて、実は忠告する己の生き方こそが問われるからです。私たちは自分自身が人にならわれるような者でないという事実を知っています。ですから、自分を見習えなんて言う人は、よっぽど己を知らないのか、よっぽど傲慢なのかとさえ思います。
けれどパウロは言います。「どうか私にならう者になってください」。パウロのこの言葉は高慢ではありません。実体験に基づく恵みの知らせです。すべてのキリスト者はこのパウロの一言に倣うべきです。「私を見てください。私はこんなにも弱い者です。私は自分自身を見るときに本当に嫌になります。けれど、神はこんな私をそれでも良いと言ってくださったのです。こんな私を赦してくださったのです。だから私はもう、自らの弱さに惨めになることも、嘆くこともありません。私はこの弱さのゆえに神の愛に出会ったのです。だからどうぞ私を見てください。私に働かれたキリストを見てください」