第34火曜 Iコリント3:1-23



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 パウロは、「神の畑」、「神の建物」、「神の神殿」という3つの喩えを用いて、教会とは何かについて語ります。

【1】 神の畑

 「神の畑で作物を育てるのは誰か」という問いかけから、パウロは「教会の頭は誰なのか」という問題を語ります。自分でも、アポロでも、他の誰でもない、神ご自身こそが教会の頭であるというのです。指導者たちは神の尊いご計画の一部を担っているにすぎないのだから、やれパウロだ、やれアポロだと騒ぎ立てることは間違いである。大切なのは育ててくださる神を見上げることだと言っているのです。
 見えない神を、教会の頭として絶えず見続けること。それはしもべである自らの分を知るということでもあるでしょう。だからこそ、私たちは、この神のしもべにすぎない者が、神の協力者として用いられるということに、驚きと喜びを見出すのです。そのような一人一人の召しと献身をもって教会は成り立っている。私たちはそのように召されているのです。

【2】 神の建物

 畑の喩えに続いて、パウロは建物の喩えをもって、キリスト者としての生き方について語ります。私たちの待ち望むキリストの再臨の日。主はすべてのものを焼き尽くす火をもって、私たちの働きを試されます。もし私たちの建てる建物がその火の中でも焼け落ちないなら、私たちは報いを受けます。しかしもし焼け落ちれば、私たちは損害を受けるのです。私たちは何をもって建物を建てるでしょうか。主の試みに耐えうる自身の生き方であることが大切です。
 では、火の中でも焼け落ちない建物とは何でしょう。「いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(13章13節)とパウロは言います。私たちが愛によって築き上げるもの。これこそが火の中でも焼け落ちない、残されるものです。愛に生きるということは時に損を掴むことです。相手に分け与えること。相手を許すこと。受け入れること。それらはときに面倒です。何の見返りもなく仕えることはとても難しいのです。けれど、私たちはそのように生きることを願い求めましょう。なぜなら、私たちが隣人のために負う一切の労苦は、その時が来ると完全に報われるからです。忠実なしもべをキリストはねぎらわれる。そして新しい神の国において、より多くの物を任せてくださる。これが神の約束されている報酬だからです。

【3】 神の神殿

 パウロはまた神殿という喩えを用いて教会の役割について語ります。ここでパウロが神殿と語るところは、神殿のなかでも特に至聖所のことを指して言っています。それは神の臨在されるところ。そのお姿を直接に見ると死んでしまうというほどに聖なるお方がおられるところ。これが至聖所です。パウロはこのような至聖所を指差して、教会とはまさにこのような場所だというのです。
 大切なのは、至聖所が、人と神が会見するために聖別された特別の場所ということです。聖なる神が人と会うためにおいでになる特別な場所。なぜ、このような場所が必要なのか。それはもちろん、神が聖であり、私たちは汚れた者だからです。安易に聖なる神に触れることは、私たちの滅びを意味します。ですから、神は特別にお会いになる所と時を定められたのです。そして、教会とはまさに、この役割を担っている。つまり、この教会をもって、神は私たちとお会いなさるのです。私たちは礼拝を通じて聖なる神と対面するのです。

【4】 キリストのもの

 「そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです」(23節)。私たちはあらゆるものを所有しています。人も、世界も、命も、時も。しかし、それは、私たちがキリストのものであればこそ、であるということを忘れてはなりません。パウロを送り、アポロやケパを送り、世界を統治され、いのちを支配し、死に勝利し、現在も未来も統べ治めたもうお方とは、キリストです。
 私たちが受けたすべては、本来はキリストのものなのです。私たちが何ゆえに、この恵みに与っているのか。それは私たちがキリストのものであればこそです。私たちはキリストの贖いを通して罪赦され、義と認められ、神の子としての特権に与ったのです。私たちはすべてを持っていても、主人ではありません。私たちは被造物にすぎない罪深い者。しかし、キリストにあって私たちは、キリストの持つ一切の恵みを所有する者とされるのです。


【信仰告白】

[2] 使徒信条