「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」(1〜2節)。
パウロはユダヤで最高の教育を受けた一人でした。当代随一のガマリエル門下の一人でした。その彼が十字架のキリスト以外は何も知らないことにするというのです。
十字架のキリストは当時、何を意味していたのでしょうか。それは処刑された一人の犯罪人を指してその方が救い主であるということです。それは人々が期待するようなメッセージではありません。それは非常に単純で愚かな福音の提示です。智恵を尽くし、巧みな言葉を駆使するそれとは全く懸け離れたものです。しかしパウロはこの十字架のキリストのみを知る決心をします。他のものには目もくれません。
なぜでしょう。それは、これこそが私たちの救いであるからに他なりません。そうです。他に救いはないのです。救いはただ十字架のキリストの尊い血潮によってのみ提示されるのです。それならば、私たちがこれ以上に求めるべき智恵があるでしょうか。
しかしこのことは、多くの人にとって隠された奥義です。これを理解するには、私たちの努力ではなく、御霊の助けをいただくことが大切です。御霊は、隠された奥義としての智恵を私たちに啓示してくださるのです。