謙遜に、愛をもって、公明正大な生活をしていこう、とお奨めがあった後に、信仰が「弱い」と指摘されるとは一体どういうことなのでしょう。信仰生活で悪を退けるために消極的な選択をしてしまう、かえって歩みが臆病になり、重要でないことに対していたずらに、大げさに心を遣う人が「弱い」といわれるようです。弱いものがいるならば、その対象として強いものがいるわけで、この二者がどうやら信徒間に不和をもたらしていたようです。
パウロは「食べる」という非常に具体的な、生活そのものの行動から信仰生活の落とし穴について指摘しています。重要なのは「私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい」(13節)。自分では良かれと思ってしていたことが、周囲の人に疑問、戸惑いを生じさせ、「クリスチャンって?」と思わせてしまっていないでしょうか。あなたの言動は徹頭徹尾信仰に立った配慮ができていますか、確信を持って歩んでいますか、その歩みはお互いの霊的成長に役立っていますか、と訊ねられているのです。お互いが疑心暗鬼に陥らないように心を強く保てるよう祈りましょう。