神様の御計画の完成、救いの成就は何を目安にできるのでしょうか。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である」(26節、イザヤ59章20〜21節)。神の国の完成、つまりすべての人に救いの恩寵が行き届き、神様への従順で満たされた時、と答えることができます。ではその確認の第一歩として、自分自身が神の前に跪くとき、常に敬虔な、従順な心でいるのか。義務的に、機械的に、排他的に祈りを献げていないか。自らの反省と、御恵みへの感謝と、従順である喜びとを持って礼拝しているか。このような自己点検がいつもできているか。知れば知るほど信仰生活は安穏、怠惰ではいられない、自分に厳しいものだと考えさせられます。
第1章から提言されているとおり、神様はすべての人を救うために、すべての人が神様の前で悔い改めることを迫っておられます。異邦人は不自然な罪の道をたどることによって、ユダヤ人は神様のみこころによって心がかたくなにされたことによって、不従順であることを知らされているのです。神様の恩寵はいかに大きなものなのか、誰にでも手にできるものなのか。それは与えられていなかったからこそ嘆願し、失ったからこそ後悔する、なんとも人心を奮起させるものだということがわかります。神様の前で謙遜にさせられ、自分自身の救いがたい滅びの状態を告白し、神様の憐れみを懇願すること、神様の慈愛のなかに留まり続けることを希求すること、これが望まれている人間の姿なのです。そしてその姿は一貫して変わることがないのです(29節)。
神様!これは一体全体どういうことなのですか?あなたのみこころはいったいどこにあるのですか!?悲惨な、残酷な、理不尽なニュースを見聞きするたびに心が揺り動かされます。なぜ?どうして?と思ったときこそ、神様のみこころが働かれているのではないでしょうか。「敢えて」イスラエルに不従順を知らされることによって救いを全うされようとする神様です。すべての人が従順で満たされるときまで、忍耐して、待っておられる神様です。すべてのことが神様の御手の中にあるのです。その神様に礼拝を献げさせていただいていることに感謝しましょう。