クリスチャンは、律法の行いとは関係なく、信仰により恵みによって救われました。そして、その後も、律法とは関係なく、恵みのなかで成長してゆきます。律法とは関係なく・・・そうです、パウロは、クリスチャンは「律法の下にではなく、恵みの下にある」と言っています。そうすると、律法は関係ないとまで言ったら、クリスチャンは何でも自由に罪を犯そうということになるんじゃないか?そんな反論が予想されます。パウロは、今回のところで、その予想される反論に答えているのです。
クリスチャンは、かつては「罪の奴隷」であった者も、今ではキリストに身をささげ、自ら「義の奴隷」となることを選び取ったのです。そのクリスチャンが、弱さのゆえに罪を犯すことはあったとしても、自ら積極的に罪を犯そうという思いを持つことはありません。
ここで、パウロは、クリスチャンは律法とは縁を切ったと書いています。律法は、不完全な私たちの罪を指摘します。私たちの古い夫である律法は、いつも私たちを責め立てるのです。しかし、クリスチャンはその律法とは縁を切って、キリストと縁を結びました。イエス・キリストを信じるなら、私たちは絶えずイエス様の愛と恵みを受けて、律法を守り行う者に造り変えられてゆくのです。律法そのものには私たちを救う力はありません。イエス様にこそ救う力があるのです。
じゃあ、律法は罪なのかというと、そんなことはないとパウロは言います。律法があるから、私たちは罪を知ったのです。律法があるから、私たちはイエス様を必要とすることが分かったのです。律法そのものは聖であり、良きものなのです。