第31土曜 ローマ6:1-14



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 罪人であることを知れば知るほど、「こんな者さえも赦していただけるなんて・・・」と、赦しの恵みも豊かに、しみじみ実感します(5章20節)。
 では、その恵みをとことん味わうために、「さらに罪のうちを歩もう!」ということになるのでしょうか?(6章1節)

 いえいえ、本当に信仰によって義とされ、罪赦されたキリスト者は、もはや罪のうちを歩むのが苦しくなります。罪のうちを歩む存在ではないのです。人が水中で生きられず、魚が陸上で生きられないように。
 なぜなら、古い肉の欲に生きる自分はキリストとともに十字架につけられて死に、キリストの復活とともに新しい神の子として生きる者とされたからです(5〜8節)。洗礼(バプテスマ)が、その証印です(3節)。
 自由の身となったのに(7・9節)、再び罪の奴隷に舞い戻るなど、愚かで不合理で、何より新しい人にとっては生理的に受けつけられないことなのです。貧民窟から抜け出したのに、なぜまたその生活に戻ろうとするのですか?

 奴隷解放と自由民権運動を通しての自由は、多くの血と汗と涙によって勝ち取られたものです。もはや誰も好んで再び奴隷の身になろうとはしません。
 同様に、キリスト者として、真の自由の恵みに浴した者は、もはや再びサタンのいざなう罪の奴隷に身を落とすなんて、考えるだけでも嫌になることなのです。
 罪の奴隷からの解放には、やはり多くの「血」が流されました。十字架の上で流された血潮です。救われたあなたが、もう一度罪の生活に舞い戻ることは、その「血」を無駄にすることになります。主イエスをもう一度、十字架にかけることと同じなのです(ヘブル6章5〜6節)。

 「愛する主を、本当にもう一度十字架にかける気ですか?」 罪に歩もうとしたときに、自問してください。


【信仰告白】

[2] 使徒信条