4章からの続きです。
信仰にあって義とされる(救われる)恵みに導き入れられたキリスト者は、神の平和のうちを生き、喜びに生きます。
患難さえも希望に変えられる(患難→忍耐→練られた品性→希望)と知っているからこそ、いつも喜ぶのです(第一テサロニケ5章16節)。
しかも、この希望は失望に終わることがありません。「聖霊によって、神の愛が私に注がれているから」(5節)です。
いのちをかけて表された十字架の上での愛。どんなときでも、キリスト者は、その愛を思い起こすとき、喜びに包まれます。元気になります。
「天地を造られた偉大な神様が、小さな私を、それほどまでに愛してくださっている」と。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方」(8章32節)の愛が注がれているから、失望に終わることはないのです。