パウロは、「神によって義とされる」とは具体的にどのようなことなのか、旧約聖書からアブラハムのエピソードを引用しています。信仰の父祖と呼ばれるアブラハムの「行いが立派であったゆえ神に認められたのではない」ということが説明されます。
割礼とは現代も行われている「神の子とされる」ことを覚えるための行為であり証拠とされます。しかし、この行為自体に救いがあるわけではありません。実際アブラハムは割礼を受ける以前に神によって義とされました。むしろ神によって義とされたことを確信して、アブラハムが証を立てたということが強調されています。
その姿勢を貫いたアブラハムにこそ、神は祝福を約束した旨が述べられます。このことから信仰とは一方通行の関係ではなく、神と人との相互関係がしっかりと生きている関係であると知ることができます。
見えている幸い以上のものを神に期待したアブラハム、こういう人こそ「神から義とされる人」であると念が押されています。
また、アブラハムの姿勢が後世を生きるわたしたちに残されているのは、私たちのためでもあることがわかります。キリスト御自身を見たりさわったりしていなくても、アブラハムのように「見ずに期待する」のなら、必ず神との関係が健やかなものにされるということ、イエスの犠牲と復活を信じ感謝することによって「神の目に義とされる」ことが説明されます。
キリスト・イエスの十字架の死と復活は、ひとえに私たちを義のなかに招きたいがためであったと、4章は綴られます。
見えるものを信じることさえ難しい時代です。けれども、あらゆる事象のなかに神は温かいメッセージをこめてくださっています。目に見えることを感謝しつつ、さらに目に見えない幸いにも期待する日々を歩みたいものです。