1節以下。イスラエル人は選民です。神が選んだ特別な民です。では何が優れているのかといえば、それは、まず最初に「神のことば」をゆだねられた点です。しかし、それ以外のことは、イスラエル人も異邦人も、同じ人間です。
聖書は言います。すべての人が罪の下にあるということ。そして、この律法と罪と救いの関係性は、今初めて説明されたものではなく、旧約聖書の時代、何千年も前から言われていることだ、とも説明されています。
旧約聖書はウソではありません。おとぎばなしでもありません。むしろ、根本なのです。そして、その根本の古きよきもの(古い契約)を、主イエスが、安定させ、完成させた(新しい契約)のです。
詩篇14篇が引用されています。
人は、正しいでしょうか。できれば信用したい。どの人もすばらしい、信じるに足る存在であると、思いたい。
ところが、残念ながら、人には、自分でもどうしようもない性質を抱えていますので、それが難しいのです。子は親の期待を裏切って、それが悪い裏切りの時もあって、しかし、それが人です。親だけは絶対正しいと子どもは信じたいものですが、ほかならぬ親は自分がそれほど正しくないことを知っているでしょうし、知るべきです。配偶者とは、恋人とは、親友とは信じあえると思いたい。でも、やっぱり、なかなか上手く行かないのが、私たちの暮らす社会です。モーセの時代から離婚についての話題はありますし、その前から、兄弟同士の憎みあいの記事があり、友人同士の決裂がある。
人は、罪から解放されない限り、この裏切りの連鎖からも解放されません。しかも、律法によっては「悪いことだ」と自覚することはできても(自覚も大切ですが)、根本的な解決になりません。
人は完全に律法に従うことはできません。また、神の目的を全うすることもできません。そして、信仰を持った人が、二度と罪の悩みを持たないわけでもありません。しかし、主イエスの贖いを受け入れた人々は、罪から来る刑罰を免れることができます。イエスの贖いを受け入れるとは、どのようなことでしょうか。それは、問われるべき責任を、イエスが背負ってくださったことを、信じ感謝することです。それが「義とされる」ということです。
何人であっても、先に信じても遅れて信じても、イエスを信じることによってのみ、人は救いを受けるのです。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないからです」(使徒4章12節)