第31火曜 ローマ2:5-29



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 主イエスキリストの公生涯、最初の一声は「悔い改めなさい、神の御国が近づいたから」でありました。主イエスの道を備えた人、バプテスマのヨハネもまた、そのように宣教を開始したのでありました。
 してみると、やはり、「悔い改める」ということが、神さまの呼びかけにお応えすることの第一歩、といえるのだと思います。

 わたしたちは、悔い改めているでしょうか。

 時々、あたまで理解できると、その都度わたしは思っていました。何を思うかというと、
 「今日はいいメッセージだったなあ。今日の聖書メッセージは、○○さんに聞いてもらいたいなあ」もしくは「○○さんこそ聞くべきだ」「○○さんのような人が聞くべきなのに、今日は来ていないや、残念だな」
 もしも、礼拝で、聖書を読みながら、そんなふうに考えることがあったら、おそろしいことです。

 ロマ書2章です。1章は乱れた社会、またまことの神を知らない世界で起こったりであったりする出来事を中心に話が進められていました。
 2章は、イスラエル人の世界観をベースに、イスラエル人に向けて書かれています。すなわち、まことの神さまを、既に知っている人々へ。

 壁が厚すぎて、御言葉が達しない心になっていませんか。常識に縛られて、知っている知識が心にまとわりついて、余分な脂肪のように、魂にこびりついて、健康を損なってはいませんか。信仰者が犯しやすい罪とは、「義人意識」です。すでに神様によって救われていることに、あぐらをかき、上からモノを見てしまうのです。
 福音書のパリサイ人と取税人の記事を思います(ルカ18章9〜14節)。神を信じていると自負している人は、このことに陥りやすいのです。
 御言葉は、隣人や、他人へ向かっているのではありません。受けたその人に向かっているのです。
 使徒の働きの記事にペテロがイスラエルの民に向かって、メッセージする箇所があります。そのとき、イスラエルの人々は、ペテロのメッセージにどう反応したでしょうか。
 「律法学者たちは悔い改めろ!」とさけんだでしょうか。
 ・・・そうではありません。彼らは「私たちはどうしたらよいだろうか」と叫んだのです。

 25節以降で出てくる「割礼」は、イスラエル人男性に行われた外科的な処置です。これは旧約聖書からの伝統です。そして、この儀式を通過しているかどうかが、「神の民かどうか」、ひとつの境でした。そうした一通りの宗教儀礼を行っていれば、神は自分を認めてくださると思ってしまっていた人々が、この聖書箇所の背景には多く存在したようです。
 しかし。わたしたちは悔い改めましょう。儀礼は大切でありましょうが、それが人を救うわけではありません。
 悔い改めない人のままでいるのは、つらいことです。苦労は買ってでもしろ、と言われますが、聖書にはそんなこと書いていないのです。イエス様は、むしろ、おっしゃいます。
 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところへ来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11章28節)。


【信仰告白】

[2] 使徒信条