どのような人も、弁解することはできません。それは、神さまの存在を知っているかどうか、ということについてです。
神さまは、あらゆるところに、そのしるしを示しておられます。ですから、わたしたちは、たとえ聖書を読まなくても、教会にくることがなくても、福音を知らされていなくても、神の存在と圧倒的な力を知らない、とは弁解できないはずなのです。
昔の日本人は、「自分ではどうにもならない」色々なことを、妖怪変化の存在や神々という形で理解していたのだと思います。それでも、自分以外に「神」という存在があると気づいていただけ謙虚さを感じますが。
しかし、やはり「気づいていれば」良いわけではありません。どこまでいっても自分本位なのです。せっかく神さまの気配を察知しても、自分に災いが降りかからなければいいや!今が良ければまあいいだろう!という神理解までしか持ち合わせてこなかったふしがあります。これは残念です。
そして、現代では、神の存在そのものを否定する、ヨコにおいておく、そういう風潮になっている。むしろ、信じていると「ぁゃしぃ」。となってしまう。
しかし、そうやって神さまを否定する人々、そういう人々も代用物を求めます。偶像礼拝。「まことの神さまでないもの」を「神」として拝む。ギリシャ神話、日本神話、多くの神々が登場します。けれども、これらの神々は、人の情欲が具現化されたものなのです。ですから、神々には担当があります。偶像という神がいるわけではない。わたしたち人間の自己中心が形になっていったのが、いわゆるところの、神なのです。そして、その神の名によって、その神を理由にして、利益を追求し、自分の中の罪を正当化して行くのです。ゆえに、そこには「聖書が提示するところの悔い改める」という行為は、もちろん行われません。
ニセの神礼拝と欲望は必ずセットなのです。それゆえ、それらの礼拝には悔い改めがありません。ただ罪に対する正当化があるだけなのです。これが罪の姿です。自由に生きているつもりが、縛られてしまって、がんじがらめになってゆく状態です。こうして、人は本来の姿からは、かけ離れていってしまうのです。
自分の罪を軽んじると、何もかもを軽んじるようになります。この解決が神さまにあることを忘れるとき、わたしたちは、自分の中のあらゆる情欲を正当化して人を自分を傷つけてゆくでしょう。
神を軽んじてはいけません。偶像礼拝の罪を、軽いものとして見てはいけません。自分を辱めることになります。自分を愛さなくてはいけません。そうしなければ、隣の人を愛することもできないからです。わたしたちは、神に従いましょう。全くの自由を得ようではありませんか。それが勧められ、既に提示されているのです。うけとめつつ歩もうではありませんか。