第31日曜 ローマ1:1-17



【祈り】

[1] 主の祈り

【はじめに】

 この手紙は皆さんもご存知の通り、パウロ先生によって、2000年ほど前に書かれたものです。ローマに点在する教会に、クリスチャンたちに宛てて書かれた手紙であります。
 パウロ先生自身が1章10節でおっしゃっているように、先生はローマに行きたいとは願いながらも、なかなか行かれずにいる状況でした。そんななか、ギリシャのコリントにおいて、海の向こうのローマへ向けてしたためられた手紙がこの「ローマ人への手紙」(ロマ書)です。

 ロマ書は手紙の体裁をとりながらも、内容は信仰と信仰生活の基準が明確に示されたものです。神学とキリスト教の教理が記されているものです。
 ロマ書をおおまかに分類すると、1〜12章はキリスト教教理です。そして12〜16章には、それまで書かれた教理と目的を軸にどのように実際生活するか、それが主な内容です。
 1〜12章にはキリスト教教理とは何か。それは、私たちと共に居てくださる聖霊様、その聖霊様による聖化、神さまによる聖めとはどういうものか、ということが体系的に書かれてあります。「神の目に」聖いとはどういうことか。「神に」聖められるとは、どのようなことなのか。
 この手紙が書かれた最大の目的とテーマは何でしょうか。何を目指して、パウロ先生はこの手紙を書いたのでしょうか。今を生きる私たちにも関係がある、その目的とは、「福音宣教」です。


【聖書通読のたすけ】

【1節】

 使徒パウロ。彼は「キリストのしもべ」と名乗っています。しもべは主人のために働きます。主人の命令で働きます。パウロは自分から出たもののために働いているのではなく、神から出ていることをお伝えするために、この手紙を書いているのですよ、と強調するため、このように書き出しているのでしょう。

【2節】

 「あらかじめ約束された」とあります。キリストが地上にいらっしゃって、十字架によるあがないをなされたのは、突然思いつきのように起こったのではありません。パウロは、まずそれを手紙の最初に宣言しています。
 これは、預言者たちを通して旧約聖書で預言されてきたこと。それがキリストの出現と十字架をあらわしていたのだよ、あなたがたは預言の成就を味わっているんだよ、と。つまり、パウロは預言者たちの後を受け継いでおり、その預言は確かなものであって、信じるに値するものだ、と書き始められているのです。

【3〜5節】

 キリストは、人としてこの地上にいらっしゃいました。マタイの福音書のはじめに系図が書かれてあります。イエス・キリストは、人として、確かな家系、普通の人々と同じ営みのなかに、あえて生まれました。その必要がなかったのに、私たちと同じようになられました。
 4節を見るとき、私たちは再び知ります。主イエスというお方は、「ただ人間として生まれた男性が突然教祖になって一世を風靡した」というのではない、ということを。
 この方の誕生は、ですから御霊によるものでした。十字架にかかって死なれましたが、死に打ち勝ってよみがえり、人々の前に姿を現し、そして天に昇られた方です。
 そのキリストが ―――人として私たちと歩んでくださり、父として導いてくださり、御霊としてそば近くいてくださる神様が――― 弟子たち、使徒たち、あらゆるクリスチャンのひとりひとりに、働きを任されたのでした。パウロ先生も、自分もそのうちの一人である、と5節に書いています。

【14節以下】

 パウロ先生は、あせっています。そういうわけで14節の「負債」という言葉を使っているのでしょうか。また新共同訳聖書では「果たすべき責任」とあります。このフレーズは「ある人から預かっているものを、先方に渡していないので渡さなければ」というような言い回しです。
 わたしたちは渡しましょう。伝えようとか、説得しようとか、そういうことではなく、ただ、その両手に乗せられた福音を、隣の人へお渡しすることが大事です。
 福音には力があります。それを信じるすべての人を解放へと導く力です。


【信仰告白】

[2] 使徒信条