パウロ(記者のルカも同伴)は、ミレトでエペソ教会の長老たちと別れてエルサレムに向かいました。船は地中海を渡り、フェニキヤのツロに上陸し(1〜3節)、さらにトレマイを経由し、カイザリヤに着き、そこでは伝道者ピリポの家に滞在しました。カイザリヤでは、かつてエルサレムの飢饉を預言し、そのとおりになった(参照:11章28節)預言者アガボが、「『パウロはエルサレムで捕らえられ、異邦人に渡される』と聖霊が告げた」と言います(12節)。そのため、ルカも含め(12節)、パウロの周りの人々は、エルサレムに上らないように泣きながら訴えます(13節)。パウロは当時の教会に、なくてはならない伝道者、指導者だったからでしょう。
しかし、パウロは、十字架につくためにエルサレムにまっすぐに顔を向けられていた主イエスのように(参照:ルカ9章51節)、エルサレムに上ることを取りやめはしませんでした。彼自身にも御霊によって、「なわめと苦しみが私を待っている」(20章23節)と示されていましたが、彼にはエルサレム教会へ諸教会からの献金を届ける主イエスから受けた任務があり、御霊の示しによって、エルサレムへ行ってから、ローマを見なければならない(19章21節)とも示されていたからです。御霊はエルサレムへ行くなとは言われていなかった。パウロには迫害と苦しみが明らかに示されても、エルサレムへの道、さらに続くローマへの幻が「走るべき行程」(20章24節)であったからです。
パウロだけでなく、今を生きる私たちキリスト者ひとりひとりにも、向かうべき、それぞれのエルサレムがあります。そこでは傷つき、苦しむことがあるかもしれません。この世の流れに妥協せずに、神のみこころ、主イエスの御名のために生きることは苦しみが伴うことは、当然予想されることだからです。それでも私たちは、主イエスの御名のために、まっすぐに進んでいくことを選び取っていきたいのです。