パウロは、アテネの町に偶像がおびただしくあるのを見て、憤りを感じた。「アテネにある偶像の数は、アテネ以外のギリシヤの町にあるすべての偶像の数に勝る」と言われている。また、こうも言われている、「アテネでは、人と出会うより、神に出会う方が容易い」と。このようなアテネで、パウロは、会堂でユダヤ人たちと論じ、また、広場では出会う人々と論じ、エピクロス派(快楽こそ人生の主要目的とし、神々は人の世界から離れて人に関心を示さない、と考える派)やストア派(一切万物は神で、神と世界とは同一とする汎神論に立ち、あらゆる物を神とし、一切のものは神の意志のもとに運命が定められている、と考える派)の人々の注目を集めた。そこで、彼らはパウロをアレオパゴスの評議所(裁判や外来講師の身分審査を実施した所)に連れて行って、パウロに語らせた。耳新しいことを聞いたり話したりすることに時を過ごしていたからである。
パウロは、語りだした。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。・・・『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」(22〜23節)。パウロは、人々の宗教心をほめ、「知られない神に」と刻まれた祭壇を糸口に、次のように語りだした。「天地の創造者なるまことの神は、人からの供給を必要とされず、人に必要な供給を与えるお方である。人の営みの背景には、神が介在しておられる。人々が熱心に追い求めて探しさえすれば、神を見いだせるようにして下さっている(口語訳27節を参照)。あなたがたの詩人の言うように、『私たちもまたその子孫である(本来は、異教の神々を指す)』(28節)。だから、偶像礼拝を捨てて、悔い改めよ。神は、主イエス・キリストによって裁かれる。彼が復活したことが、その確証である」。人々は、パウロの話に関心をもったが、復活の話になると、あざ笑う者や、また聞くことにするという者が出た。しかし、信じる者が幾人かあった。
ユダヤ人に語ってきたパウロが、神観そのものが違うギリシヤ人に語るために、相手の文化的文脈のなかで語ろうとしたこの説教は、注目に値する。私たちも、幾人かを救うために、相手の心を心として、福音を伝えていこう!(第一コリント9章19〜22節)