異邦人教会であるアンテオケ教会で、エルサレム会議から届けられた書簡が読まれた。そこには、ユダヤ人が守っていた割礼や種々の律法を守るようにという言及がなかった(15章28〜29節)。主イエスの十字架による罪の全き贖いとそれを信じる信仰のみによる救いが、聖霊の導きによるエルサレム会議で確定されていた。アンテオケ教会は、非常な歓喜に包まれた。会議から遣わされた者たちが一同を励まし、主の御言葉を教え、かつ宣べ伝えた。律法主義から解放されたこの時より、異邦人への世界大の宣教が、このアンテオケ教会を拠点に展開していくこととなった。
パウロは、第1回宣教旅行で主の御言葉を語った所に訪問しようと立ち上がった。しかし、それは、第1回宣教旅行が聖霊に示されてスタートしたのとは違っていた(13章1〜3節)。「さあ、・・・見てこようでなないか」(口語訳36節)と、勢い込んだ思いがあり、パウロは、同行する者についてバルナバと激論し、別れ別れになる始末であった。言わば、自分の肉によるスタートであった。そこには、神の全き祝福と導きは期待できない。
パウロは、ルステラでテモテを得、行く町々でエルサレム会議の決議を伝えて前進したが、2度にわたって聖霊に止められて、前は海しかないトロアスに着いた。パウロは、どんなにか失望し、悔い改めの祈りをし、全てを神に委ね、御心を求めて祈ったことであろう。しかし、人が自分の業を終えた夜こそ、神の業が始まる夜明けとなる。
ある夜、パウロは幻を見た。1人のマケドニヤ人が、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」(9節)と、彼に懇願する、救いを求める魂の叫びであった。そこで、パウロたちは、海を渡ってマケドニヤへの宣教を決意した(ここから著者ルカが加わった)。神の御心と確信したからである。このマケドニヤ人の叫びこそ、ヨーロッパ、さらに全世界への宣教を展開するきっかけとなった、神からのビジョンであった。
主イエスの十字架の全き救いを感謝しよう。聖霊による神からのビジョンを求めよう。与えられたなら、神の御心と確信し、信仰をもって歩み出そう!