人が救われるのは、キリストを信じるだけでいいのか。それとも、それ以上に何か必要なのか、という問題。この問題を扱うのが、本日の箇所。エルサレム会議の記事です。
興味深いのは、著者ルカは、パウロやバルナバの言葉ではなく、ペテロと、イエス様の兄弟ヤコブの言葉を記します。使徒の働きにおけるペテロの記述はここで終わり。ペテロの最後の活躍の場面です。
ペテロはここで、大きく2つの事柄を上げています。1つは、実際に異邦人が信じて、聖霊が与えられたこと。具体的にはコルネリオのことを指していると思います。もう1つは、異邦人だけでなく、ユダヤ人である私たちも、割礼や律法によってではなく、ただキリストの恵みによって救われたと言います。救いに必要なのは、信仰のみ。これがペテロの主張です。
そして、このペテロの発言をきっかけに、会議は一気に結論へと向かいます。ペテロの発言があってから、バルナバとパウロの発言に耳を傾けるようになる。この会議において、ペテロが重要な立場にいたわけです。
この1週間の箇所を、ペテロ中心に見てみると、神様はなんとしてでも、救いに必要なのは信仰のみ、ということを初代教会のクリスチャンに伝えたかったことがわかります。ペテロを整えるために、コルネリオを備え、幻によって教え、命が危ないときには御使いを送ってでもペテロを守る。そのようにして、このエルサレム会議におけるペテロの発言があったわけです。「救いに必要なのは、信仰のみ」と、なんとしてでも伝えたい。そのような神様の思いが、ペテロの歩みを通して教えられます。
いつの間にか、律法主義に陥る私たち。自分も、他人も裁かず、信仰による救いを信じる者としての歩みを送っていきたいと思います。