ステパノの説教はユダヤ人の宗教的柱である土地・律法・神殿に関して説き明かし、議会の罪を糾弾しました。44節からは神殿についてです。ソロモンの建てた神殿にではなく、神が設計した荒野の幕屋にこそ真の礼拝の姿があったと対比されています。
素晴らしい神殿を建てたソロモンですが、彼は後にエルサレム近くにモレク神のための幕屋を造りました。「唯一の真の神を知っているはずなのになぜ?」と思います。神殿を建てたソロモンは「いと高き方は手で作った家にはお住みにならない」ことを忘れたのでしょう。ステパノの言葉は、イスラエルの民が神殿を神のように取り違えてしまった偶像礼拝を示しているのです。私たちも何をもって神を礼拝しているのでしょうか。しっかりと神ご自身を見つめているでしょうか。
「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです」とステパノの糾弾は激しさを増します。しかし、その言葉の裏に示されているのは、悔い改めて立ち返ることを求める神の愛の招きです。
しかし、その愛の招きは人々から拒絶されてしまいます。まさに主イエスが人々から拒絶されて殺されたようにステパノも殺されるのです。しかし、人々がステパノを罪に定めましたが、主イエスは神の右に立ちステパノの正しさを弁護しておられます。殺されようとするステパノが人々のために祈ることができたのも、主イエスを見つめていたからでしょう。この最後のステパノの姿は後のパウロに強烈な影響を与えたはずです。
私たちの神の前での歩みがすべての人に理解されることはないかもしれません。しかしたとえ誰にも理解されなくとも、主イエスが認めてくださるというクリスチャンの受ける慰めがあるのです。また私たちの歩みを神が用いてくださることを覚えましょう。