ステパノの説教は、信仰の父といわれるアブラハムに始まり、イサク、ヤコブ、エジプトの王となったヨセフ、エジプトからイスラエルを救い出したモーセ、と旧約聖書を通して、神が自らイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となったことを語る。神がアブラハムとその子孫の間に立ててくださった契約は変わることがなく、イスラエルを見捨てず、導き続けてくださった。しかし「先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け・・・」(39節)、「自分たちで作ったものをまつって楽しんでいました」(41節)。・・・ステパノは先祖が神に逆らってきたことを直視して、神の憐れみを語る。あなた方が考えているのと同じく、神は素晴らしい!イスラエルの神は時代を超えて不思議なしるしをもって導いてくださる素晴らしいお方なのだ!しかし、何という背信の繰り返しなのか!・・・この痛烈な叫びは、私たちはどうなのか!と迫る。ステパノを訴えた、聖書をよーく勉強している人々は、「神の不思議な力の導きは、イスラエルに特別にあらわされてきたものであり、イスラエルは神に選ばれている!」と誇りに思っていたことであろう。しかしステパノは歴史を語るなかで、人間の愚かさと失敗に目を留め、失敗を繰り返してはいけないのだと言いたいのではないだろうか。聖書は自分がどこに立って読むかによって全く違う読み物になるから不思議だ。神に選ばれたことを誇るのか、それとも神を裏切り続けてきたことを受け入れて学ぶのか、私たちの生き方もまたステパノに問われているではないか。