第25木曜 使徒6:1-15



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 「そのころ弟子の数が増えてきて・・・日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで12人は弟子をすべて呼び集めて・・・」(1〜2節)
 この増えてきている弟子の数とはどんな人数だろう。何千人と押し寄せるのに対処しているのだから、本当に想像がつかない。信じた者が皆この群れのなかで生活したわけではないだろうが、それにしても・・・。リバイバルがすでに起こっている地域の人の証などを聞いたが本当に毎日人々が教会に押し寄せているのだ。この凄さは、やはり体験した時にますますこの箇所からいろいろ学ぶのだろう。生きてる間に体験してみたい。うん。

 さて、この12人の迅速な対応に感銘をうけるではないか。聖霊がもたらす祝福は、群れの一致にあらわれる。この群れも一致の祝福に溢れていたのであろう。しかし!不一致の種が芽を出したのがこの事件だ。世においてはちょっとした苦情だが、この群れにとっては大問題!とすぐに判定された。聖霊のなせる業かな。12人は弟子をすべて集めている。そして迅速に完璧に対処された。苦情も不平も聞き漏らさずに汲み取れるように。皆の心が良い結論に達して平安を得ることができるように。・・・この箇所には「教会の祝福」のレッスンが詰まっている。

 以前テレビのフランス料理を教える番組で、シェフが料理を指導しながら繰り返し伝えていた。「大切なことなので何度でも言いますよ。料理に大切なのはスピード。そして丁寧に!ということ」彼は迅速に調理や流しまわりへの手配はしているが、あわててはいない。ひとつ一つの行為に丁寧さを失ってはいけない、そのことが料理の秘訣とも言った。うん、料理も信仰生活も、教会牧会も同じだと思った。教会の祝福は、牧師がたくさん勉強した人だから、とか評判の良い牧師だからとかいうこととは全く畑違いのものだ。変な人はいないからとか、あの人が来てくれているからということも程遠い。良い教会は、信徒がそれぞれの生き方のなかで、極意を見出しているところに生まれるのではないだろうか。主婦が料理の極意を見出すとき、サラリーマンが仕事の極意を見出すとき、それを教会に持ち込み、適応することで群れは祝福されるのではないだろうか。何より不思議と極意というのは仕事や環境が全く違っても、一致しているものなのだ。真理とは聖書の言うとおり一つだ。私たちが生きている環境のなかで見つける祝福の秘訣は、教会のために用意されているのだと思う。教会は地上で神の栄光をあらわすことができる特別な場所なのだから。いざ!神のためにすべての良いものを持ち寄り、教会を祝福していこうではないか。


【信仰告白】

[2] 使徒信条