第25水曜 使徒5:12-42



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行なわれた」
 このようなミニストリーが展開されていると、ものすごく人目を引くのを感じる。今でもそうだ。体の癒しや悪霊の追い出しという主の霊による業が顕著にあらわれると、もちろん主によってなされたのだから、あたりまえだと感じつつも、新聞の記事に見入ってすごいっ!!と魅了されている自分。クリスチャンでさえ、なのだ。ノンクリスチャンの前に展開された使徒たちの奇蹟によるミニストリーは強烈に人々の関心を捉えたに違いない。この大きな揺さぶりに耐え切れず、まず手をかけてしまったのが、同じ天地の造り主を信じるサドカイ派の人々であった。イエスの名を検討するよりも、妬みに燃えて使徒たちを牢につないでしまった。しかしこれがまた、神の牢破りという驚くべきみ業に。続いて登場するのが、皆から尊敬されるガマリエルという律法の教師だ。「あの者たちから手を引きなさい。ほおっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであるならば彼らを滅ぼすことはできない」(38〜39節)と、神の方法に任せようと導いた。この言葉には大変学ばされる。

 実際今日でも、日本のキリスト教界におけるミニストリーは、教会に大きく揺さぶりをかける。病気を癒すミニストリーや心の癒しのミニストリー、聖なる笑いのミニストリーや賛美と踊りのミニストリーなど、大聖会などで溢れる主の臨在に感激して教会でもやってみよう!ともたらされるものが多いだろう。しかし大抵今までなかったものが入ってくるというインパクトに私たちは耐えることが難しい。そしてまず議論が繰り返され、分裂や信頼関係の亀裂など、ひどい結果を生む例も少なくない。でも日本の教会の体質はこれでよいのだろうか?良いものを保ち、守るために保守的であることは素晴らしい。しかしまた寛容であることも必要だと感じる。「しばしやってみて様子を見てみよう。実を見て判断しよう」・・・若い牧師が率いる私の教会ではこのお試し期間が結構大切だ。お試し期間中に、いろんな意見を出し合い、祈り合い、主の時をみんなで探るのだ。神は教会を愛しておられる。教会に対する神の期待をみんなで求めていくなら、どんな変化もさほど脅威ではない。「人間から出たものならば自滅する」からだ。いつも修正可能、いつもやり直し大歓迎という体質を教会は持ち合わせていきたいものだ。柔軟で寛容な心が鍵となるのは間違いない。


【信仰告白】

[2] 使徒信条