アナニアとサフィラを通して「見せかけ」という姿勢に問われる箇所ではないだろうか。「見せかけ」とは本当にあいまいな在り方だ。そして何より日本人はこれに弱いのだ。アナニアとサフィラも使徒たちの集まりをとても好んでいたのだろう。自分たちの土地(不動産)を売ってまでお金を作り使ってほしいと思ったのだから。しかし「見せかけ」の行為を隠れ蓑にした心というのは、あんがい予想をはるかに超えて欲望の渦にまかれてしまっているのかもしれない。偉大な使徒のリーダーたちに特別祝福されるかもしれないし、献げた額がうわさされていつしか尊敬される夫婦になっているかもしれないし、おのずとたくさんの人を指導するリーダーになってゆくかもしれない・・・等など。安易だが、あっという間にこれくらいは心によぎっていただろう。しかし、神が見せかけ、つまり偽りという罪をいかに完全否定するお方であるかが、ここにははっきりと示されている。彼らに悔い改める余地さえ与えなかったのだ。死まで待ったなしであった。恐ろしくて身震いしてしまう。「見せかけ」にはおそろしい欲望の尾ひれがつきやすく、また本人も人をも欺き、何よりすべてを御存知であられる神を、まず欺いているのだ。欺くというより自分で神の座に座ってしまうのと同じなのだ。そうなってくると信仰があるなんて間違っても考えられない。神を恐れていないのだから。ここまでくると「見せかけ」イコール「サタン」と言い切れてしまうではないか。
正直というあり方、生き方が祝福されることを多くのクリスチャンは体験しているのではないだろうか。場をわきまえない心のままに言い放つ正直は問題だが、他者を受容し、なおかつ自分の心と考えを正直に提示できる生き方が、最終的には多くのトラブルを回避し、祝福されていく。そこに育つ友情や信頼が無二のものとなることは間違いなく、「信じた者の群れ」(4章32節)がいかに充実した力に満ちていたかは想像できるではないか。「見せかけ」を拠点として生活するこの世には、なかなか達せ得ない魅力的な人々の在り方であったことだろう。だからアナニアたちも・・・つい。
キリスト者はキリストを名乗る者。「見せかけ」は御法度。