「毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである」
「だれですか、せっかく神の選民イスラエルとして生まれ、キリストを信じる者として教会に登録されながら、ひとり歩きできないのは?いつでも友人や牧師におんぶされなければ動けないのは?」(F・B・マイアー『今日の力』)
なるほど、このようにも読むことができるなあ、と感銘を受けた。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)と、自分の足でチャンと立ち、イエスの名によって歩いているか問われるではないか。聖書を求めて読んでいるだろうか。奉仕はやらされているのではなく、神のために自ら進んでささげているであろうか。日々心の中に、神の御声を聞いて態度を決める決意は準備されているのか。神のささやきを聞き逃さない平安は獲得しているのか。雑念雑音を心から追い出しているだろうか。自分の個人的な生活の中に、教会へのビジョンや伝道への情熱はあるだろうか・・・。
歩き回ったり、踊ったりして神を賛美したこの癒された男のように、神を求め、体験し、歓喜に溢れて歩んでゆきたいものである。