第24木曜 使徒1:1-26



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

 使徒言行録には、前半に使徒の活躍、後半に新しく信仰をもった人々の活躍が記されています。何も使徒が特別な聖人として祭り上げられるということが書いてあるのではありません。絶えず新しく信仰に入った人々のことについて、どのような配慮が必要かを議論し、その人たちのための居場所をつくり、すべての人に発言の機会を与えていきました。

 自分のために何かする時間よりも、新しく来られた他の人々のために時間を割き、労力を裂いていったのです。これは、組織の運営から考えますと、大変骨のおれる作業でした。
 しかし、使徒言行録を読み進めていきますと、初代教会の指導者たちが、絶えず降りかかってくる多くの課題や問題に、大変柔軟に対応していった様子がわかります。自分たちの経験や考え方を絶対化して、それに合わないものを切り捨ててしまうのではなく、目の前の問題をどう扱ったら良いのか、とても誠実に議論を重ねていきました。
 使徒たちや他の指導者が、なぜ鼻が高くならずに、そのような謙虚な態度を保つことができたのか、本日の箇所を見てわかりますのは、使徒たち自身がまず、神に受け入れられたからだということです。自分自身の経験や考え方以上に、私たちの心を新しく作り変える聖霊により頼む新しい生き方に入っていったからです。

 6節で、弟子たちが「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねたことが記されています。これは、彼らの古い考え方が残っていたことを示しています。弟子たちは、まだ自分たちが大将になって国を治めることを望んでおりました。そんな彼らにイエスが示されたのは、聖霊を受け、地の果てまで私の証人になれという生き方でした。イスラエルという古い自分にしがみつくのではなく、新しい出会いを求めて、地の果てまで行くということです。

 神様は、どんな人であろうとも、主イエスにあって、そのままで受け入れてくださいます。使徒が、かつては裏切り、逃げ隠れていたのに立ち直ることができたように、私たちが、どのような罪を犯していても、私たちが神のもとに帰るのなら、神は受け入れてくださいます。


【信仰告白】

[2] 使徒信条