食卓の中心におられたということは、非常に印象的です。食事の間、彼らが何を話したのかは、記されていません。会話をしなくとも通じ合う気持ちがあったのかもしれません。
そして、食事が終わったときに、主イエスはペトロに尋ねました。
「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」
なんという質問でしょうか。食事をしていた席は一瞬、緊張に包まれたことでしょう。
この箇所は、復活したイエスがペトロに、3度同じ質問をしたと伝えております。「わたしを愛するか」という質問です。あの3度イエスのことを知らないと言ったペトロの過ちをすべて消していくかのように、3度「わたしの羊を飼いなさい」と、ペトロにもう一度、なすべき務めを与えられました。イエスの愛は、私たちがどんな過ちを犯したとしても、それを知りながら、受け入れ、私たちを立ち直らせてくださる愛です。私たちの弱さを知り尽くし、なお受け入れてくださる、その愛です。
1度目に「飼いなさい」と言われた言葉は、「餌をやる。食事の世話をする」という意味です。2度目の「世話をしなさい」というのは、より「羊の管理をする。マネージメントをする」という意味合いの強い言葉です。そして、3度目に、イエスは、再び、「餌をやる。食事の世話をする」その言葉に戻っています。
これもまた、一見、大した違いに見えないように思いますが、イエスは、最後にもう一度、羊の群れの日常の世話、食事の世話をするように、ということを強調しました。主はペトロに、マネージメントをしなさいと言われたのではなく、魂の世話をするように言われたのです。
魂の世話というのは、目に見えません。目には見えませんが、私たちが神の養いを受けなければ、私たちの魂は力を失い、枯れていきます。聖餐式が象徴するのは、私たちは、主イエスの贖いの肉を食べ、赦しの血潮を飲まなければ生きていけないということです。
私たちが礼拝に来るのは、この養いを受けるためです。主イエスが招いてくださる食卓が、礼拝で用意されています。感謝と喜びをもって、また、期待して礼拝に集う者となりましょう。