「死人がよみがえった!」 映画や小説なら、ありでしょう。もし現実に起こったら、世界中を駆け巡るトップニュースです。
身近な人の死に直面した方でも、「生き返ってくれたら・・・」と願うことはあっても、本当に生き返るとは考えにくいのではないでしょうか。「あの人は、私の心の中に、生き続けるのです・・・」という思いを抱いて、残された者が生き続けるのです。
トマスの答えは、悔しさ悲しさを押し殺して、冗談さえ交えた至極現実的なものでした。「もし仮にそんなオバケが出るってんなら、その槍の穴に指を差し入れてやらぁ」
彼もまた、皆と同じく、主の死とユダヤ人に対する恐れで極限の心細さにあったと思います。大きな現実の壁に周囲を覆われ、心が狭くなっていたのでしょう。目を天に向けたときに見えるもの、人間の“現実”という思い込みをはるかに超えた父なる神の創造的なみわざに、心を向けることができなくなっていました。
もし、みことばによる約束を信じ、主の御前に静まって祈り、心を天に向けることができたら、きっと、人間的な視点とは違う、神の視点から、主の復活についても、見ずに信じる(29節)ことができたでしょう・・・。
しかし、トマスの心は塞いでいました。
見ずに信じる者でなければ、救われないのでしょうか?
いいえ、見なければ信じられない者のところへは、直接ご自身をお示しになってまで、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(27節)とおっしゃる、あわれみの主です。トマスの冗談にも真剣につきあわれる主です。
思えば、十二弟子も、パウロも、聖書や教会史に出てくる多くのキリスト者も、直接キリストを見るか、神のわざを見ることによって間接的にキリストを見聞して、信じています。教会の歴史は、主のあわれみの歴史であることに気づきます。
ただし、信仰の本質は目に見えません。そもそも信仰とは、目に見えないものを確信させるものだからです(ヘブル11章1節)。この世界がことばによって生まれたこと(ヘブル11章3節、創世記1章)を信じ、ことばなるお方(ヨハネ1章1〜3・14節)を信じ、みことばの約束(罪の赦しと永遠のいのち)を信じる。信仰の本質は、「ことば」にこそあります。そういう意味で、「見ずに信じる者は幸い」(29節)と言えるのです。あの、福音書に出てくる百人隊長のように(ルカ7章2〜10節)。