魚は初期キリスト教において、十字架や子羊、生命の樹などとともに、キリストの象徴として用いられたそうです。特に魚の図像は、古代ローマのカタコンベの壁画や地中海沿岸各地の石棺や墓碑の浮彫などに数多く発見され、最古のものは2世紀にさかのぼります。
迫害されていた初期のキリスト教徒たちは、自分たちがクリスチャンであることを表すのに十字架を用いることはできずに、暗号のようにして魚の図を用いたのだそうです。今でも、教会のいろいろなシンボルとして魚を用いることがありますが、これは、ギリシア語で魚を意味する「ιχθυς」(イクスス)が、「イエス」「キリスト」「神の」「子」「救い主」を意味するギリシア語の5つの頭文字の組合せと同じだからです。
本日の箇所と、その次の箇所で、ヨハネによる福音書は終わります。ヨハネの最後の言葉がここに書いてあります。本日の箇所とその次の箇所には、ヨハネが最後に読者に伝えたかったことが書いてあると言ってよいでしょう。ヨハネは何を伝えたかったのでしょうか。
それは、主イエスの弟子になるということです。他の福音書にも、ここに書いてあるような、魚がたくさん取れて、それにびっくりして主イエスに従うようになった、という記事はあります。しかし、こんなに後ろではなく、もっと福音書の前のほうに書いてあります。イエスがペトロに「弟子としてついてきなさい」という箇所に、この箇所はとてもよく似ているのです。この描写の仕方が、ルカ福音書5章の「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われたこととよく似ているのです。そのことを思い起こさせるために書かれたかのようです。
ヨハネがこの記事で伝えるのは、主イエスが復活の後で、もう一度、ペトロに「弟子であること」を思い起こさせたということです。どのような失敗をしても、イエスは、再び私たちに従う機会を与えてくださることが示されているのでしょう。
私たちも、主イエスへの信頼を新たにして、従っていく者となりましょう。