イエスの死が伝えられています。何度読んでも、一気に読むことのできない箇所です。文字をたどりながら、神の子イエスの受難を思うと、思わず目をつむりたくなるような箇所です。
あらためて読んでみて、この箇所には、光と影の部分があるように思いました。女性たちは、公然と十字架を見上げて、最後まで主イエスに従いました。その後で、陰に潜んでいたような人たちが登場します。ヨセフや、そして、ニコデモまで登場します。最後に出てきて主イエスの葬りを行いました。
ヨセフやニコデモは、言ってみれば人間としてできる最高の行為をしています。しかし、イエスを釈放しようとしたピラトやヨセフや、ニコデモという高い地位にいる議員たちも、イエスの死を止めることができなかったように、いくらお金をかけても、人間の力をもってイエスの死を止めることはできませんでした。
この当時、十字架刑の囚人は、墓に葬られることも少なかったようです。ですから、十字架についた人の骨というのは、あまり発掘作業でみつからないそうです。彼らは主イエスを、最高の埋葬の方法で、誰も葬られたことのない、貴族の入るような墓に葬りました。しかし、多額なお金が使われているほどに見えてくるのは、人間の力の限界です。どのような努力をしても、死という現実は変えられないという虚しさです。振りかえってみて、私たちの人生でも、人間の努力が空回りをする経験があるのではないでしょうか。
しかし! その人間の限界の向こう側で、虚しさだけに押しつぶされそうになる現実のなかで、神の救いの業は進みました。ヨハネやニコデモは、何もできなかった良心の呵責から、イエスを最高の仕方で葬ったのでしょう。その墓が、この最高の葬りの仕方が、主イエスの復活の舞台として用いられることになるのです。
私たちの宣教の業がいかに虚しく思えるときも、人間の努力の限界を感じるようなときにも、いいえ、そのようなときであればこそ、神の業は目に見えないところで進んでいるのです。そして、それは、時至って地下水脈のように湧き上がります。
十字架の主イエスへの信頼を、今日も新たにしましょう。