第24日曜【ヨハネ19:23-42】



【祈り】

[1] 主の祈り

【聖書通読のたすけ】

『完了した』

 今日の箇所で3度も繰り返されるキーワードがあります。「聖書(のことば)が成就するため」(24・28・36節)です。新約聖書に記された主イエスの十字架の出来事が、一貫して聖書(旧約聖書)に記された神の約束の成就であることを、この福音書の記者は強調します。
 24節は、詩篇22篇18節から。
 28節は、詩篇69篇21節から(42篇2節を挙げる説も)。
 36節は、詩篇34篇20節から。
 37節にも、ゼカリヤ12章10節からの引用があります。

 詩篇の箇所を挙げましたが、33・36節の「骨が折られなかった」というのは、過越のいけにえとしてほふられる子羊のほうを、むしろ思い起こさせる記述です(出エジプト12章46節、民数9章12節)。
 過越の祭りでは、傷のない1歳の雄の子羊をほふり、血を家の門柱とかもいに塗ります。これは、出エジプト時の最後の災いである神のさばきの渦中、子羊の血の塗られたイスラエルの家だけは、さばきが過ぎ越された出来事を記念するものです。
 傷のない子羊の血によってさばきを免れる。この旧約聖書に記された神の約束が、まさに過越の祭りの日に、十字架にかけられた主イエスによって完全に成就したことを、福音書記者は明記します。
 残酷な十字架。しかしそれは、私たちがさばきを免れるための、身代わりの十字架です。私たちの罪はそれほどに恐ろしいのです。

 「完了した」(30節)という十字架上の最後ことばは、人を死の絶望から救いに来た救助者が、かえって死に飲み込まれるという、これ以上にない絶望のなかでのことばです。
 「どこに神の救いがあるというのか」 「なぜ神はこれをよしとされたのか」
 このとき、多くの弟子たちにとって、十字架はそう思えてなりませんでした。
 しかし、「完了した」と発せられた主イエスは、ご存知でした。十字架は、旧い約束の成就であり、新しい救いの完成であることを。絶望の十字架が、主イエスにとっては、すでに勝利の旗印でした。「完了した」は、勝利宣言だったのです!
 こうして、私たちの残酷な罪を示す十字架が、今や罪を示すと同時に、その罪の縄目から信じる者が完全に解き放たれていることを宣言するものとなったのです。