軽蔑されたイエス様の姿をユダヤ人たちが見て、満足し、釈放へと気持ちを変えるのではないかとのピラトの期待は裏切られ、十字架への激しい要求は変わりません。特にピラトはイエス様に罪はないと宣言しますが、ユダヤ人たちの「イエス様は自分を神の子としている」との主張を恐れます。ローマで神とされていた皇帝への政治的反逆罪として、この訴えが成り立つ可能性があるからです。ピラトの一番恐れているものは、この世の権威であり、権力者です。
緊迫した状況の中でピラトは総督としての権威をイエス様に示しますが、イエス様はうえからの権威を明らかにされます。権威の本当の源はこの世界を造られた神様です。そして、その権威はまことの王なるイエス様を通してあらわされるのです。しかし、「カイザルの味方ではない」「イエス様の存在がカイザルにそむく」とのユダヤ人たちの訴えを聞き、ピラトは見える地上の権威を恐れるのです。
「さあ、あなたがたの王です」ユダヤ人たちは「除け、除け、十字架につけろ」と。そして、ついにはカイザルのほかに私たちの王はいないとまで言うのです。神とされていた皇帝をユダヤ人が自分たちの王とし、神とすることは十戒に触れることでした。(出エジプト記20章3節)ピラトは、その時、十字架につけるためにイエス様をユダヤ人たちに引き渡したのです。
ピラトからユダヤ人たちはイエス様を受け取り、イエス様は十字架を背負い、どくろと呼ばれている地で二人の者を両脇に、十字架につけられました。
ピラトは、上からの権威によるまことの王としてのイエスの最後を目の前でみてきました。総督としての彼の権威(権力)も、またこの地上のすべての権威(権力)も、まことの王なるイエス様の支配のもとにあるのです。しかし、ピラトはこの世の権威を恐れ、イエス様の十字架刑を止めることはできませんでした。
しかし、ピラトのその罪状書きは本当のことを言い当てていました。ピラトは祭司長の「自称、ユダヤ人の王」と訂正してくれとの求めを拒否し、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と掲げたのです。まさに、イエス様こそ、神の選びの民である真のイスラエルの王です。私たちはまことの王としてのイエス様を信じています。そのまことの王なる方が私たちのために十字架におかかりになってくださったのです。